ッセージ要約 2020329
聖書 詩篇130篇
テーマ 「主を待ち望む」

 

詩篇130篇は、120篇から134篇までの「都上りの歌」と名づけられた歌の中のひとつです。
「都上り」とはエルサレムへの巡礼のことで、伝統的には、ユダヤ人が年3回の主要な祭りでエルサレムに上る時に歌ってきたものだと言われています。

ユダヤ人がバビロンに囚われていた頃の苦しみや約束の地にやっと戻れた時の喜びなどが表現されています。

130篇で著者は「深い淵から」神を呼び求めています。120篇と同様、まだ寄留地にいた頃のことかもしれません。
この「深い淵」が具体的に何であれ、「巡礼者」に望む様々な苦しみと捉えていいでしょう。

へブル書13章14節にあるように、私たちは地上の都ではなく、後に来ようとしている都、天のエルサレムを目指して歩んでいる巡礼者です。

その巡礼の旅のなかで遭遇する様々な苦難の中から、私たちは主を呼び求めます。

それは、整ったいわゆるお祈りなどではなく、「私に耳を傾けてください」という心の叫びでしょう。

そのような叫びへの答えが見えない時に、「だから神などいない」という人々がいます。
私たちはむしろ「神は罪深い私(たち)のことなど相手にしてくれない。」と考えるかもしれません。
しかし、詩篇の著者はここで大切な真理を告白します。
「あなたが赦してくださるからこそ、あなたは人に恐れられます。」

「主を恐れることは知恵の初め」とありますが、神が真に恐れられるのは、私たちを裁くからではなく私たちを赦してくださるからです。

神は無限の方ですから、裁きの神でもありますが、その本質は赦しなのです。
イエスとは「神は救い」という意味です。私たちはイエスの名を呼ぶ時に、まさに「赦してくださるからこそ恐れられるべき神」を告白しているのです。

「深い淵」からイエスの名を呼ぶことができる。これが私たちに与えられた最高の祝福です。
私たちは、この名を呼び続けます。詩篇の著者は、夜回りが夜明けを待つのにまさり、主のことばを待ちのぞんでいると言っています。

「主のことば」はもとろん聖書にあります。しかし、聖書のことばを読むだけですむのなら、待ち続ける必要はありません。
あるいは、主のことばが、自分の祈りの答えという意味だけなら、逆に聖書の意味がわからなくなります。

むしろ、私たちが待ち望む「主のことば」すなわち「神のことば」はイエス様ご自身であることを忘れてはなりません。
イエス様は私たちと共におられるお方、インマヌエルです。それならなぜ改めて主を待たなければならないのでしょうか。

それは、私たちが巡礼者だからです。私たちはまだ本来の故郷に到達していません。
地上では寄留者であり、私たちの国籍は天です。イエス様と共に旅をしている者として、今はまだ多くの困難を経験します。
困難があるのは主が共におられないからではなく、故郷に到達していないからです。

ですから、私たちに必要なことは、まず上にある故郷に目を留めること。そして共におられる主を認めることです。
私たちが「主の名を呼ぶ」時、この両方をしています。
すなわち、全能の父なる神の右に座す主を告白し、再臨の主を待ち望み、今すでに共におられる主に祈るのです。

 

 

 

メッセージ考察

@深い淵 ご自身にとっての「深い淵」とは何でしょうか?
 当面の淵、中長期的な淵、時間に関係ない本質的な淵について考えてみましょう。

A「あなたを呼び求めます」とありますが、具体的にはどのように呼び求めますか?

B神は自分に耳を傾けるとは、具体的にはどのようなことでしょうか?

C神は自分の不義い目を留めるとは、具体的にどのようなことでしょうか?

Dなぜ神が赦してくださるからこそ、人に恐れられるのでしょうか?
 たとえば、裁判官がある犯人に温情判決を下したら、その裁判官は優しい人だと評価されるか
 逆に甘いと批判されるのではないでしょうか?

E主を待つ、あるいは主のことばを待つとは、具体的には何をどのように待っているのでしょうか?
 福音書には主人の帰りや花婿を待っている人の話がたくさんありますが、
 待つことにどんな意味があるのでしょうか?

F著者はイスラエルに主を待つように呼び掛けています。具体的には主が何をされることを待つのでしょうか?