宣教の内容について 補足

 

使徒の働き

17:22そこでパウロは、アレオパゴスの真中に立って言った。「アテネの人たち。あらゆる点から見て、私はあなたがたを宗教心にあつい方々だと見ております。 

17:23私が道を通りながら、あなたがたの拝むものをよく見ているうちに、『知られない神に。』と刻まれた祭壇があるのを見つけました。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう。 

17:24この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。 

17:25また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。 

17:26神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。 

17:27これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。 

17:28私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。あなたがたのある詩人たちも、『私たちもまたその子孫である。』と言ったとおりです。 

17:29そのように私たちは神の子孫ですから、神を、人間の技術や工夫で造った金や銀や石などの像と同じものと考えてはいけません。 

17:30神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。 

17:31なぜなら、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。」

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前回のテキストの補足説明を記します。

 

*アテネ人の宗教観に対して、枠組みの一部を受容または利用しています。

1. 多数の神々があることについて、宗教心があついと表現しています。(皮肉ととる説もあります)。

すでに名前のついている神々ではなく、「知られざる神」(名無しの神)について言及し、パウロが語ろうとしている神は、彼らの神と「別の」神ではないと言っています。

ギリシャの神とは別にユダヤの神があるわけではないということです。現代で言えば、ギリシャの宗教とキリスト教がそれぞれ異なった神を拝んでいるという問題ではないということです。これは「唯一神」からの当然の帰結ですが、理解されにくい点です。すなわち、世界には「ひとりだけの神を信じる一神教」と「複数の神を信じる多神教」があるという考えが広まっていますが、この場合の一神教は「拝一神教」であって、唯一神教とは異なります。もちろん、拝一神教でも、他の神々は認めず、単に偶像として退けますが、複数の異なる神観を持つ宗教が存在しつつ、自分のものだけが正しいとするので、他宗教との接点を求めるよりも排他的になる傾向があります。パウロはまず接点を求めています。

 

2. パウロはギリシャの詩人の言葉を援用しています。「人間が神々の子孫である」というのは、神と人との連続性を強調していて、ユダヤ的な「超越神」の考えに真っ向から反するように見えます。しかし、聖書の記述は多面的で、例えば「アダムは神の子」という箇所もあります。もちろんそれは、「子」が何を意味するかが問題で、アダムも神であるという意味ではありません。創造者(神)と被造物とは絶対的に区別されますが、人は「神のかたち」に似せて造られているということもあります。さらに、「親子」とは、類似と相違という面だけでなく、両者の交流(交わり)を表現していることも大切なポイントです。罪とは、その交流を損なっている状態を指しています。ここでのパウロの主張は、ギリシャ人は神の子孫を自任しているのなら、手で作った神々を拝んでいるのは本末転倒ではないかというものです。これは、神学の哲学的な議論よりも、実践的なあり方を問題としていると言えるでしょう。

 

*汎神論と汎在神論について

汎神論とは、すべてのもの(世界)は神であるという考えです。現象としては神ではないが、本質は皆、神だということです。すべてのものには神が宿っているという言い方をすることもあります。したがって人の問題はその事実を忘れていることだということになります。もちろん、現象と本質という区別はありますが、やはり、神と世界との境界はあいまいです。それに対して、汎在神論とは、世界と神とは絶対に異なるとした上で、世界は神の中に存在しているという考えです。パウロのこの説教での立場でもあります。世界の外に神がいるという外向きの超越神論に対して、内向き(内在)の超越神論と呼ばれています。外とか中とはもちろん比喩的な意味で、物理的に宇宙の外とか逆に人の体内にということではありません。肝心なのは、神は人とは絶対的に異なりながら、人は神から離れて存在することはできないということです。それにもかかわらず人が神から離れているというのは、交わりの喪失を意味しています。

 

*時代、民族の問題(歴史)について

神が世界から単に超越しているのなら、神を求めても神を知ることは不可能になってしまいます。しかしパウロは「求めることがあるのなら見出すこともある」と言っています。神は超越していても不条理な神ではないからです。そして、神を求めるのは、歴史の中で行われるというのです。すなわち、世界に様々な民族があり(これは同時に様々な宗教があることも意味します)、また、さまざまな時代によって歴史が構成されているのは、そのような歴史的・文化的な制約は、人々が神を求めることを促すためにあるということです。普通は、そのような制約が人々の分断を産むと考えられます。それは、それぞれの民族、文化、時代が自らを絶対とするからであり、神の本来の趣旨に反します。むしろ、人、民族は自らに課せられた制約のゆえにへりくだり、神を求めるべきなのです。

 

*偶像礼拝について

真の問題は、偶像と見なされる神々があること自体ではなく、上述したようなあり方からの逸脱であり、結果として、「己の神」にすぎないものを絶対化し、分断と裁きあいをもたらすことです。これはもちろん、諸国の神々の名において行われる行動にもあらわれますが、一神教を名乗る、実質「拝一神教」の世界でも起こります。そして、本来、唯一神教であるはずのユダヤでも、「律法主義」という形で表れています。要するに、自分や自分の所属するグループを絶対化、神格化をするというのが、すなわち偶像礼拝なのです。ですから、パウロは、このアテネでの説教の内容を深め、ローマ書などで、律法の問題を正面から扱っているのです。