礼拝 2022年10月2日
葬儀について
ピリピ人への手紙
1:20それは、私がどういうばあいにも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現わされることを求める私の切なる願いと望みにかなっているのです。
1:21私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。
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聖書には、埋葬についての記事はたくさんありますが、今日で言うところの「葬儀という儀式」についての記述は特にありません。ですから、葬儀については、聖書の精神を土台とし、聖霊に導かれて取り組んでいくことが必要です。日本に住んでいる私たちにとっては、仏式の葬儀に参列する機会が多いので、その際に、どのように振る舞うべきなのかが大きなテーマとなります。これは、広く他宗教とどのように関わるのかという問題につながりますが、具体的な事例については、一律に述べることができないので、会合の中の話し合いという形で進めていきます。葬儀が仏式、キリスト教にかかわらず、私たちの原点は、パウロの言葉にあるように、生きるにしても、死ぬにしても、私の身によってキリストのすばらしさが現わされることです。形はどうであれ、この望みにそったものであれば、神が導いてくださると思います。
この大きな課題と合わせて必要なのがキリスト教葬儀の理解です。以下に参考資料としてキリスト教葬儀いついて記します。
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今日の「キリスト教葬儀」は、教派によって様々な形がありますが、その基本は「礼拝」です。(これは結婚式も同様です)。すなわち、讃美歌、祈り、聖書朗読、説教によって構成されています。しかし、形式ではなく内容となると、いくつかのパターンに分かれます。すなわち、故人の立場をどう捉えるのかによって葬儀の性質が変わってくるのです。(これは、キリスト教に限らず、葬儀そのものの在り方の問題です)。
第一は、故人の死後の命運に、遺族や他の人たちが影響を及ぼすことがある儀式です。第二は、反対に、あくまでも遺族たちの為だけに行われる儀式で、故人については記念を中心とするものです。第三は、第一と第二の中間のもので、その中でも様々なバリエーションがあります。
第一のパターンは、死者の命運を左右するのですから、当然、儀式の重要性が高いです。日本の仏教の多くはこのパターンで、故人が仏弟子となり、往生を遂げることができるよう仏典から語りかけます(読経)。焼香や、初七日、四十九日等も含め、一連のことがらが「供養」として、故人のためになされます。ただし、現代では、その宗教的要素が形骸化し、遺族のための「生きるお葬式」となっている状況も見ることができます。このパターンのキリスト教版は、主にカトリックのミサに見ることができます。伝統的なカトリックでは、人が最後の審判において救われるように祈りますから、祈り自体が個人の命運を左右するわけではないにせよ、まだ命運が決まっていないという前提での儀式となりますから、その重要性は高いと言えるでしょう。
第二のパターンは、保守的なプロテスタントに見られるもので、死者の命運は生前に決定するという前提によるものです。この場合、目の前にいる故人は、すでに天国か地獄にいる(もしくは、そこに行くことが定まっている)ので、故人のための祈りや行動は厳密に言えば無意味となります。そして、命運を決定するのは所謂信者かそうでないかということになると、信者の葬儀は、故人が天に凱旋したことをお祝いするような内容となります。このことが、仏式に慣れている人には違和感を与えかねません。この路線を進めると、信者でないものの葬儀は不可能か、無意味なものになりかねません。故人の地獄行を宣告する儀式となってしまうからです。
このため、プロテスタントでも第三のパターンをとることが多くなります。すなわち、故人の魂を神に委ねるという形です。その考え方はこうです。人間には、死者の命運を知ることはできません。仮に信者の命運がすでに決まっているとしても、そもそもだれが信者なのかは、究極的には神だけがご存じです。(もし信者の条件を、洗礼を受けていることとしても、ではどのような洗礼が有効なのかという議論になってしまいます。信仰を条件としても、そもそも人の信仰を他人が評価できるのかという問題になります)。だから、神だけがご存じの事柄については、人は不可知であると認め、人にできるのは、ただ、神の恵みとあわれみに委ねることだけだという立場です。これは、人間の限界を踏まえた現実的な対応だと思いますが、これは、生きている人々の信仰に不安を与えるという大問題があります。また、「委ねる」というのはどういうことなのかも問題となります。すなわち、「委ねる」ことによって故人の命運が変わるなら第一のパターンですし、委ねるのは、遺族たちの心の整理が目的で、故人には影響がないのなら第二のパターンと同じことになります。
このように、葬儀の意味合いは、死生観によって変わりますが、だれの死生観なのか、故人なのか遺族なのか、参列者なのかという「視点」も問題となるため、割り切って形式だけの問題にすることも考えられます。例えば、先日行われたエリザベス女王の葬儀は、英国らしい荘厳かつ落ち着いたものでしたが、女王が英国国教会のトップであったので、当然、英国国教の儀式が行われました。女王本人の信仰は、国教を超えた広いものだったと伝えられていますし、参列者に至っては、あらゆる立場、信仰の人がいたわけですから、形式は形式と割り切った上での儀式だったと言えるでしょう。式進行は、葬列、開式、讃美歌、聖書朗読(第1コリント15章とヨハネ4章)、説教、祈祷、国家斉唱という標準的なものでした。復活について語られ、最後の審判にむけて神に委ねるという、第三のパターンの儀式で、女王をはじめ皆がキリスト教徒であるという建前を維持しつつ、キリスト教徒以外の人でも参列可能な形になっていました。また、数々の祈りが捧げられましたが、その対象は遺族や後継者、国民のためなど、故人以外にも向けられていました。
私たちの場合も、キリスト教葬儀は儀式として、多様な立場の人が参列できる形のものが望ましいと思われます。一部の教派で見られるような、「天国への凱旋」を派手に祝うという、祝祭的なスタイルについては慎重になるべきでしょう。パウロは礼拝の集会のなかで、無秩序に異言を語る問題に触れ、そのような行為は自己満足であり、信者でない人を躓かせるだけだと警告していますが、そのような配慮の必要性は葬儀についても言えることです。
何よりもキリスト教葬儀は福音の告知の場です。葬儀であれ何であれ、私たちは神を信頼しているのです。救ってくださるのはキリストご自身であり、キリスト教の教えや儀式ではありません。福音とは、私たちのためにキリストは十字架で死なれ、復活し今も生きて働いておられるということです。そして、キリストの名を呼び、キリストとつながることをお勧めしているのです。よく、「キリスト教の教えでは、人は死んで終わりではない、天国で再会できる」など、死後の有様について語ることがありますが、大切なのは、そのような「死後の世界についての見解」ではなく、生きておられるキリストと共にいるということです。人々の関心は「死者がどこに行くのか」であるとしても、真の問題は、「どこへ」ではなく「だれと共に」です。生きるにしても死ぬにしても「キリストと共に」あることが福音であり希望なのです。