はじめに〜マタイ福音書について

 

(本サイトの「マタイ福音書」は、日曜礼拝でのメッセージをまとめたものです。

従って、厳密な講解ではなく、聖書箇所も一部略されていたり重複していたりするところもあります。)

 

マタイ福音書の成立については、多くの研究があり、ネット上でもたくさん学べるのでここでは深入りしません。

一般に、マルコ福音書と、仮定上の資料「Q」が組み合わさった上で、マタイ独自の資料も加えて構成されていると言われています。

マルコは、十字架と復活の「福音」をイエス様の言動を物語の形で語る「福音書」という新たなジャンルを作り、

そこにイエス様の「教師」としての言葉、教えをまとめた「Q」の内容を盛り込み、イエス様の全体像を描こうとしていると考えられます。

 

マタイ福音書の読者はユダヤ人であると思われるので、異邦人向きのマルコ福音書とは、同じ出来事や言葉であっても、その強調点が異なることがあります。

マルコでは、モーセ律法を無効として超えていく方向が強いのに対して、マタイでは律法の完成者としてのキリストが描かれています。

このことは、マタイ福音書を一面的な読み方をすると、モーセよりも厳しいキリストの律法という形で受け取ってしまう危険性があります。

マタイでも「恵み」が中心にあることを見落とすことはできません。

「福音」という、圧倒的な恵みによる救いの世界に、「弟子への教え」が組み込まれることによって、「恵み」の現実化がより具体的になってくるのです。

 

この、マタイ福音書の「両面性」は、贖いの恵みと弟子としてのあり方ということに加えて、ユダヤ人と異邦人の関係という、関連したもう一つのテーマにもみられます。

律法の完成に強調点が行くと、必然的にそれはユダヤ人だけにかかわる問題となります。そして、そのようなことを示唆する箇所もあります。

しかし、律法の完成が、結果として律法を超えていくという観点からは、神の国が異邦人も含む全人類に関わることがらとなります。

そして、マタイ福音書は異邦人が含まれている冒頭の系図に始まり、あらゆる国の民を弟子にせよという、いわゆる「大宣教命令」でしめくくることにより、神の国の普遍性を示しています。

 

このような点を念頭に置きつつ、この長大な福音書を読んでいきます。