追悼記念礼拝

2022年10月30日

 

教会員とそのご家族を覚えて

 

ピリピ人への手書き

3:20けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。 

3:21キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。

 

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地上の生涯を完了し、神のもとに召された方々を記念し、礼拝をささげます。使徒パウロの語るように、霊的(理にかなった)礼拝とは、私たち自身を生きた供え物として神にささげることです。記念礼拝は、既に神に召された方々を記念しつつ、地上に残っている私たちが自分自身を神の前に差し出すことです。ですから、これは単なる故人を忍ぶ「記念会」ではありません。

 

人はそれぞれ神によって創造されました。ただ「できた」のではなく造られたと言うのは、造り主の「意図」があるという意味です。たまたまではなく意図的に生まれてきた私たちは、神の意図の元に地上を過ごし、地上を去っていきます。そのような私たちのことを、聖書は「寄留者」と呼んでいます。一時的に地上に留まっているという意味です。それも、たまたまではなく、神の意図があってです。これを一言にすると、神によって地上に遣わされたということになります。

 

ですから、本来、私たちは天から地上に来たものです。同時に、私たちは土から造られたもの、すなわち、地上の素材でできているものでもあります。この二面性が人間の本質です。いわゆる信仰の無い人でも、非常に優れた能力のある人を「天才」と呼びますが、この「天に由来するもの」が何なのか、それが単なる能力のことなのかが問題です。また、ある人は、「超人的」な側面を能力だけではなく、人格にもとめます。能力だけでなく人格的に優れた人も尊敬されます。しかし、聖書が語っているのは、そのような一部の「優れた」人ではなく、本来は全ての人に当てはまることです。すなわち、神はアダムを土から造り、そこにご自身の「息」を吹き込まれた結果、彼は「生きた魂」となったとあるように、神の「息」すなわち「霊」が宿っている存在を人間と呼んでいるのです。ですから、私たちが天来の存在だというのは、この神の霊によって生きている存在だということです。

 

この「霊」は能力や人格に影響を与えますが、能力・人格そのものではありません。そもそも「霊」は物ではありませんから、私たちが「所有」したりしなかったりする「物」ではないのです。「霊」は「息」や「風」と同じ単語であることからも伺えるように、ある意味で「流れて」います。例えば、電流はプラスとマイナスという二つの極が繋がる時に発生します。「霊」についても、神と人という二つの極が繋がっている時に、いわば呼吸のように発生する出来事のようなものと考えることができます。つまり、私たちが「天来」だというのは、土から造られたものでありながら、神とつながって呼吸をしているということです。あるいは、神と空気を共有しているとか、神と同じ風に乗っているなどという比喩もあり得るでしょう。これは、神とのつながりがなければ、実質的には働かないのですから、その場合は、ただ土からできたという側面だけが残ることになります。

 

このように、本来、霊において「天来」の存在であった人は、神との交流を絶ったために、地に属するものとなってしまいましたが、キリストによって神との交流を回復し、再び天に国籍を持つものとなることができました。それは、聖霊の自由な働きによるもので、私たちたち自身を超えて、家族はもちろん、私たちが思いもよらない所にも及んでいます。この聖霊の自由な働きは、人の恣意的な行動によって制限されるものではありません。ですからそれは風にたとえられています。このことは、すなわち人間の側から見れば、人為的ではなく「自然に」起こることです。もちろん、この「自然」というのは、単なる「自然界の物理的な法則に従う」ということではありません。仏教でも言われるように、「自然」とは「自らそうであること」であり、人間の思いや計画を超えた有様をも意味しています。このように、人は聖霊の風に向かって「このように吹け」と要求することはできず、その風に身を委ねるのみです。それが「自分の身を生きた供え物とする」礼拝となります。すでに天に召された者も地上にいる者と共に、この礼拝を捧げるのです。

 

この「礼拝」は、もちろん、いわゆる「礼拝の会合」に限られるものではありません。それは日常的なありかたの問題です。ここで私たちに求められるのは、何かを「する」ことよりも「しない」ことです。すなわち、聖霊の風の邪魔をしないことです。天来の存在ならば、地上の観点は一旦わきに置いて、聖霊の働きを求め、その働きの邪魔になるようなものを取り去るのです。そして、この「邪魔」が曲者です。いわゆるこの世の「卑俗なもの」「悪魔的なもの」は分かりやすいですが、そのような「暗闇の世界」を完全に取り除くことは不可能ですから、その闇の中でこそキリストの光が輝くように、聖霊の働きを求めるべきです。ものごとを「光と闇の対決」として見た上で、自分を光の側に置き、相手を闇の側に置き、邪魔者として排除しようとするのは、人間の習性ですが、実は、これこそが最も重大な「闇」であるというのが「福音」の語るところです。この「習性」を最大限に強化するのが「宗教性」(ユダヤでは律法)です。つまり、人間の宗教性が聖霊の働きの邪魔をするというのが、皮肉にも最も恐ろしいことなのです。ですから、私たちはそのような宗教性に頼らず、生身の罪人として、ただ神の恵みの中に身を置きます。それが礼拝であり、そこに聖霊の風が自由に吹くのです。

 

この聖霊の現実は天来のものですから、そこに身を置く者も、国籍が天であることを証しします。その時、私たちは地上では寄留者、旅人であることを確認し、「自由人」として歩むことが可能となります。同時に、「故郷」である天を思い、そこにおられるキリストに身を寄せます。そして、霊において天来でありながら、地から造られたものとして厳しい制限の中にある私たちも、来るべき時には、キリストによって「復活」し、神の業が完成することを待ち望んでいるのです。

 

きょうも私たちは自分自身を聖霊の働きに身をゆだね、地上での旅を全うすることができることを願いつつ、すでに天に召された者とともに、キリストとともに復活し、神の国の完成を待ち望みます。この望みは、地上においても天においても変わることがありません。