メシアニックとは何か

主イエスキリストの再臨を前にして、歴史上最大の霊的動きが起こりつつあります。それが「メシアニック・ムーブメント」といわれるものです。

「メシアニック」とは、「メシアニック・ジュー」、すなわち、イエスをメシアと信じるユダヤ人たちの信仰のことで、聖書本来の信仰のあり方に戻ろうという流れです。

イエスの再臨とイスラエルの回復は不可分の出来事ですが、1948年以来、神がイスラエルを徐々に回復されつつある今日、メシアニック・ジューたちによって、まさしく聖書の次の預言が成就されつつありといえるでしょう。

『多くの民が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。』(イザヤ2章3節)

それでは、このメシアニック・ムーブメントのいくつかの側面を見てみましょう。


A.メシアニックという言葉について

「メシアニック」という言葉の意味は、「クリスチャン」と同じです。

「クリスチャン」がギリシャ語から来ているのに対して、「メシアニック」はヘブライ語からという違いだけで、意味はどちらも、キリスト・メシアのような者、あるいは、キリスト・メシアにつながる者ということです。

それでは、イエスを信じるユダヤ人たちは、なぜ、クリスチャンではなく、メシアニックという言葉を使うのでしょうか。以下、その理由を見てみましょう。

1. ユダヤ人は、自分たちの言葉であるヘブライ語を使うのが当然であるということ。

これは単純な理由といえるでしょう。

2. クリスチャン」は、アンテオケで異邦人の改宗者に使われた呼び名であって、ユダヤ人は「ナザレ派」や「イェシュア派(イエス派)」あるいは、「その道の者」などと呼ばれていました。

3.「クリスチャン」という言葉は、現代においては、あまりにも意味があいまいであるから。

現在、クリスチャンとは一般に、キリスト教圏に住む人全般を指しているので、ローマ法王から、タレントのマドンナまでだれでも「クリスチャン」と見なされます。

もちろん、あるクリスチャンは他の人々を、単なる「名前だけのクリスチャン」と見なし、「本当のクリスチャン」と区別します。しかし、何が「本当のクリスチャン」なのか定義することはほとんど不可能です。

しかも、「本当のクリスチャン」と言っても、さまざまな教派があり、いちいち、 「福音主義のクルスチャン」とか、「カリスマ派のクリスチャン」とか、「カトリックのクリスチャン」などと、「何々のクリスチャン」と言わなければ、具体的に何を指しているのかはっきりしません。

だから、単なる「クリスチャン」という言葉は、元来は良い言葉でしたが、現代ではかなり曖昧な言葉だという現実があるということです。

4. これに関連して、さまざまなキリスト教の教派は、ほとんどユダヤ人には関係のない問題であるということ。

教派問題は西洋の歴史的な要因で発生したもので、ユダヤ人が引き継ぐ必要がありません。

5.「クリスチャン」あるいは「キリスト教徒」という言葉は、本来の意味に反して、ユダヤ人を迫害してきた人々というニュアンスを持っているため。

実際、キリスト教徒によるユダヤ人迫害はきわめて悪質なものであって、今日イエスをメシアと信じたユダヤ人が、自分をクリスチャンと称すことは、同胞に対して単なる嫌悪感と拒否反応を起こすだけであって、何の益もありません。

もちろん、以上のことのゆえに、異邦人がクリスチャンと自称することを妨げるものではないし、異邦人クリスチャンとユダヤ人メシアニックは主にある兄弟姉妹であって、使命の違いはあっても、その価値に優劣がないのは言うまでもありません。


B.メシアニック信仰と、いわゆるキリスト教との関係について

イエスをキリストと告白するのがキリスト教の信仰であるとすれば、もちろんメシアニックもキリスト教であって、ただ、信者がユダヤ人であるというだけの事といえないこともありません。

しかし、それは異邦人中心の見方であって、本来は逆の見方をすべきです。

すなわち、まず、ユダヤ人の信仰があり、それが異邦人にまで広がっていきたという歴史的事実があります。

そしてその結果、さまざまな歴史的要因によって、今日のキリスト教なるものが形成されてきました。

しかし、その形成途上において、いろいろな形で、非聖書的なものや非ユダヤ的なもの、さらには、あからさまに反ユダヤ的なものが、キリスト教の一部として組み込まれてきてしまいました。

その中で、非ユダヤ的なものについては、必ずしもすべてが悪いとは言えません。

むしろ、それぞれの民族性や地域性に福音を適応させた結果であって(すなわち文脈化)、それが聖書に反しないかぎり良いものです。

しかし、反ユダヤ的なものは、どんなものであるにしろ非聖書的であって、反ユダヤ主義とは、イスラエルの聖なるお方御自身に敵対するものであることを覚えておかなければなりません。

もちろん、イスラエルやユダヤ人の文化を批判することが、すべてそのまま反ユダヤというわけではありません。

イエス御自身や預言者たちは、しばしばユダヤ人の不信仰を批判したのであり、それは神からのメッセージでした。

しかしそれは、神のイスラエルに対する永遠の計画を知っている人々が、 その計画の成就のために、神の愛を注ぎ出して語ったのであって、けして反ユダヤ的なものではありませんでした。

反ユダヤ主義とは、ユダヤ人に対する単純な人種的偏見にとどまらず、神のユダヤ人に対する永遠の計画を否定するすべてのものを指すのです。それには、キリスト教のある部分も含まれます。

これら反ユダヤ的キリスト教は、神学的には次の2つのものによって代表され、歴史的に非常に多くのクリスチャンがこれらによって騙され洗脳され、意識的にしろ無意識的にしろ、反ユダヤ的な態度をとり、イスラエルの聖なる神に敵対してきたのです。

a. 置換神学

置換神学は反ユダヤ的神学のなかでも代表的なもので、程度の差こそあれ、多数のクリスチャンが今日も採用している神学です。

これは、一言で言えば、神のイスラエルに対する計画は、イエスの十字架によってすべて無効となり、教会がイスラエルに取って代わったというものです。

これによれば、領土の約束はもちろん、霊的な使命も一切イスラエルには無くなり、イスラエルは、現代においては、単なる一国家に過ぎなく、ユダヤ人の信仰も、 いわゆるキリスト教を準備するために存在した過去の宗教、あるいは民族宗教に過ぎないと見なされます。

この神学が根本的に誤りであることは明白です。

神はイエスラエルに対する約束が永遠のものであることを何度も強調されており、また教会創設に多大な貢献をした使徒パウロも、イスラエルの召しと賜物が変わらないこと、そしてやがてイスラエルが回復することをはっきりと証言しているのです。(ローマ11章など)

イスラエルと教会はそれぞれ独自の召しと賜物をいただき、相互に補完しあいつつ、神の計画を遂行していることを忘れてはなりません。

b. 二契約神学

これは、ある意味では置換神学に対抗するためにできたものです。

イスラエルと教会にはそれぞれ全く別の二つの契約がある、すなわちイスラエルにはモーセがあり、異邦人教会にはイエスがある、だからお互いそれぞれの道を行けば十分であるという神学です。

これによれば、イエスは異邦人のみの救い主であり、ユダヤ人には関係がないということになりますが、もちろん、これは聖書の証言に真っ向から反対するものです。

イエスはユダヤ人の王であり大祭司であるメシヤであるというのが根本的な福音であり、異邦人は恵みによって、このメシアに連なっているものなのですから。

このような誤った神学と、その結果もたらされた多くの不幸に対して、今日キリスト教会のなかで反省が進んでいることは喜ばしいことです。

そして、反省からさらに一歩進んで、ユダヤ人から信仰を学ぼうという、あたりまえの姿勢が生まれつつあるのは、まさに神のご計画という他にありません。

このような流れの中で、これまで異邦人キリスト教会が当然のこととして受け継いできたものの多くが、誤っていたか、あるいは、本来のものからずれてしまっていることが次第に明らかになりつつあります。

これも、メシアの再臨の前に、教会を清めようとされている神の働きでなくて何でしょうか。


以下続く