C.現代のメシアニック信仰の現状について
まず理解しておかなくてはならないのは、メシアニック信仰には幅があるということです。
ユダヤ人がイエスをメシアであると信じるならば皆メシアニックなのですから、その内容にさまざまなバリエーションがあるのは当然のことです。しかも、ユダヤ人が2人寄れば3つの意見がでると言われるほどですから、「これがメシアニック信仰だ」などと単純化できるはずもありません。そういう意味では、「クリスチャン」という言葉と同様に「メシアニック」といっても多様性があると言えるでしょう。
ただキリスト教に比べて、ユダヤ教、すなわちユダヤ人の信仰においては、どちらかというと教理や意見の相違はあまり重要ではなく、実際にどのような生活をするのかが根本的な問題です。イエスも「主よ主よ、と言うものが皆御国に入るのではない。」と言われ、「信仰義認」の教えで知られるパウロも、不道徳な行いを列挙した上で、「このようなことをしている者が御国を相続することはできない。」と書いています。
そもそもユダヤ人にとって、信仰とは忠実な生活以外のなにものでもないのであって、しかもそれは単なる形式的、外面的、偽善的な「行い」ではなく、心からの「真実な生活」でなければならにというのが根本的な教えです。
この「真実で忠実な民」を起こすためにイエスは来られ、聖霊によって「心の割礼」を施し、心に律法を書きしるそうと神は働いておられるのです。
ですから、メシアニックにおけるバリエーションというのは、この真実な生活の具体的展開の仕方に関する意見や強調点の相違と見たら良いでしょう。
それでは、メシアニックの大きな特徴と思われる点をいくつか見てみましょう。
1.聖書観
聖書が神のことばであり、生活の絶対的な規範であるということにおいては、異邦人クリスチャンの神学と変わりはないのですが、聖書の読み方となると大きな違いがあるといわなくてはなりません。
あるメシアニックの神学者の表現を借りると、異邦人の読み方が後ろ向きなのに対して、ユダヤ人のは前向きだということです。
異邦人的読み方(新しいものを基準にし、古いものへと進む)
ヨハネ3章16節など ―>
パウロ書簡(特にガラテヤ等)―> 預言書 ―> 律法(トーラー)
ユダヤ人的読み方(古いものから新しいものへと順番に読む)
聖書の啓示は歴史のなかで次第に明らかにされ、キリストによって完成するというのは皆同意するところです。それならば、聖書は前から後へ順を追って読むのが理にかなっています。古い啓示の土台の上に新しい啓示が積み重なっていくのであって、その逆ではありません。
すなわち、まずトーラーが土台となる啓示であって、その基準によって預言が判断され、トーラーと預言の光の中で、他の諸文書が判断されされるのです。
これがタナハ(ヘブル語聖書、いわゆる旧約聖書)であり、イエスの教えと行動、そしてすべての新約諸文書は、このタナハの権威の上に成り立っています。
しばしば新約はそれ以前の教えを変えてしまったかのように誤解されますが、それは主にパウロ書簡の曲解によるのであって、福音の正当性はあくまでタナハに根拠づけられているのです。
今日、クリスチャンの間で、初代教会のありかたについて議論されていますが、特に聖書論については深刻な対立があります。ある人々は、あくまで新約聖書という文書のみを基準としますが、他の人々は、原始教会には、まだ新約聖書は書かれていなかったという理由で、聖霊の働きという現象を重視します。
しかし、メシアニックから言えば、これはどちらも無意味な議論ということになるでしょう。
なぜなら、教会とは、イスラエル(の残りの者)が異邦人にまで拡張された共同体に他ならないのであって、それは、イスラエルの歴史という現実と、トーラー、あるいはタナハという書かれた文書を土台としているからです。
この土台の上に使徒達の働きも新約諸文書も(タナハの完結編として)成立しているのです。
キリストは、タナハと新約諸文書が指し示すおかたであり、メシアニック的に言えば、キリストこそ「生けるトーラー」であると言えるでしょう。
<注>「トーラー」という言葉の使い方について
トーラーとは「教え」という意味で、単に法律や規則という意味ではありません。
トーラーは、主に3つの意味で用いられています。
@広い意味:
神の教えである聖書(律法、預言者、諸文書)全体A普通の意味:
律法、すなわちモーセ五書B狭い意味:
モーセ五書のなかの十戒をはじめとするユダヤ法
例えば、イエスが「律法の一点一画もすたれない」と言われたのは@、
「律法と預言者」という表現ではA、
パウロなどが、「異邦人は必ずしも律法(の中の戒めすべて)をそのままの形で守る必要はない」と言っているのはBの意味になります。
この3つが混同されると聖書の言っていることがわからなくなります。