メシアニック運動と日本

 

ユダヤ人のメシアニック運動に関して

広い定義

ユダヤ人がキリスト教に改宗することなく、ユダヤ人でありつつイェシュアをメシアとして告白し、また告白し続ける生活を実践していくこと

これを広い定義としておきます。この定義によれば、問題となっているのはユダヤ人信徒のありかただけなので、異邦人である日本人にとって直接の関係はありません。

ただし、間接的には、日本人がユダヤ人伝道のために祈りやその他の形で協力するときに、より良い形で彼らと関係を結べるようになるために、私たちにとってもより深い理解が必要となるでしょう。

 

狭い定義

ある人々はこのようにも主張します。

現代のメシアニック運動は、初代教会(メシアニック共同体)の復興と使徒たちの信仰の実践である

これを仮に狭い定義と呼ぶことにします。

この定義によれば、彼らの運動は日本人の信徒と直接関わることになります。なぜなら、いかなる教会(キリスト共同体)も初代教会とは無関係ではありえず、また、新約諸文書には異邦人世界へ福音が広まっていく過程が書かれているからです。

そこで、この狭い定義をどのように理解したらよいか考えてみます。


初代教会(メシアニック共同体)との関係

まず、初代のメシアニック共同体は、ユダヤ人たちによって構成されており、そこではトーラー(おそらく口伝も含めて)が実践されていたことが出発点となっています。すなわち、彼らは、いわゆるユダヤ教徒であり、ナザレ派とでも呼ぶべき一つの流れであったということです。

ここまでは歴史の現実として問題はありませんが、仮に狭い定義にしたがって、現代のメシアニック運動は2000年前のナザレ派の復興であるとすると、次のような実践的問題が浮かんでくると思われます。

まず当時のユダヤ教の実体です。現在、当時のユダヤ教は、のちに主流となったラビのユダヤ教に還元されない様々な傾向の運動があったことがわかっています。そのような多様な流れのなかにあって、ナザレ派はどのように位置付けられるのかが問われます。

この点については、最近さまざまな角度から研究されており、メシアニック、非メシアニック双方から有意義な研究成果が発表されています。ひとつの例として、ヨセフシュラムによる「ローマ書のユダヤルーツ注解」があげられるでしょう。そこでは、パウロの手による手紙と、当時の様々なユダヤ文書・思想との関連を読むことができます。また、エルサレム学派と呼ばれる人たちによる多様な論文も発表されています。

そのような研究は大変有意義であり、例えはシュラムの場合、研究が単なる学問上のことに終わることなく、現代の「正統派」ユダヤ人との関わりにおいて実際的に用いられている点は特筆すべきでしょう。

いずれにせよ、この分野は実用性云々以前の基礎的な問題であると言えるでしょう。

 

歴史的経緯−ラビのユダヤ教との関係

初代共同体の研究は研究として、その後のユダヤ教の歩みをどうとらえるかという問題があります。

いわゆるラビのユダヤ教は、キリスト教との差別化を図るという意図が含まれていると言う理由で、単純に無視することができるのか。メシアニック共同体の弱体化は、単に異邦人教会の反ユダヤ主義とユダヤ人社会からの偏見だけが原因なのか。こういった点も検討が必要です。

そのうえで、歴史的な様々な要因の積み重ねの結果としてある現代、一世紀とは様々な点で異なっている現代において、単純に2000年前の運動がそのままの形で可能かという問題があります。言いかえれば、歴史的要素を無視して「原点に戻る」という、原理主義的な方法が有効かどうかということです。

そのようなことを考慮すると、初代共同体への回帰というのは、理念としてはあり得るものの、実体としてははなはだ微妙であり、多くの具体的な問題に取り組まなくてはならないものであると言えるでしょう。


ヘレニズムの問題

次に、ごく初期のエルサレム中心の共同体から、アンテオケやその他の地方で異邦人を含む共同体が成長していく過程で起こってきた様々な事態も考慮しなければなりません。これは異邦人だけの問題ではなく、ヘレニズム世界に住んでいた離散ユダヤ人の問題でもあるのです。

当時、ユダヤ人哲学者フィロンなどに見るように、多くのユダヤ人は当時の「世界的」文化であるヘレニズム文化の中で生活し、タナハもギリシャ語訳(70人訳)を使っていました。ギリシャの偶像礼拝は否定したものの、その哲学や世界観、宇宙観といったものは、かなりの程度まで取り入れ利用もしていたのです。

しばしばキリスト教世界によるグノーシス批判があったことから、ギリシャ思想全部が批判されていたように思われますが、実際はそうではなく、新約文書の著者たちも、アルケー、ロゴス、霊と肉といった様々なギリシャ的観念を批判的にせよ利用しました。ここに、元来ヘブル的である福音が、ヘレニズム世界での宣教において「文脈化」されていく過程を見ることができるのです。

これはなにも、後にキリスト教がローマ帝国の国教になって急に起こった出来事なのではなく、すでに宣教の初期から、すくなくとも使途パウロにおいてはほとんど初めから行われていたのであり、すでに新約の諸文書もそのような事態を反映しているのです。

もちろん、ヨセフシュラム氏による研究などからわかるように、パウロ書簡、たとえばローマ書は純粋にユダヤ文書として読むことができます。ただし、当時すでにヘブライ文化はヘレニズム文化と関りを持っていたことを忘れてはなりません。

このことは、ヨセフシュラム氏をはじめ、大多数のメシアニック指導者や神学者にとっては、あまり気にならないことなのかもしれません。彼らはイスラエルでなければ、主に米国などのいわゆる西欧社会に住んでおり、ユダヤ教にヘレニズム的要素が入っていても、それがタナハの伝統にあからさまに反しない限りは問題とならないでしょうから。

しかし日本人のように別の文化に住んでいるものにとっては、ヘレニズムは単なる異文化に過ぎないものであり、信仰の本質にとってはあまり役にたたないばかりか、しばしば障害にさえなるのです。たとえば、ギリシャ的ロゴス論を用いてキリスト論を展開されても、そもそもロゴスもなにもギリシャ的世界観と無縁な日本人がそれを理解しようとすれば、聖書を学ぶ前にギリシャ哲学を学ばなければならないことになってしまいます。言うまでも無く、そのような事態は好ましくないし、不必要でありましょう。私たちにとって重要なのは、ギリシャではなく、ヘブル的世界観・霊性と日本的世界観・霊性との関係なのです。

ですから私たちはタナハから出発しつつ、新約諸文書もエルサレム学派の人たちがしているように、ギリシャ的記述の背後にあるヘブル的なものに戻らなければなりません。その上で、ギリシャ語化されたものを、そのまま固定化したものとしてではなく、ヘブルからヘレニズムへの文脈化という宣教のプロセスの軌跡としてとらえ、それを参考にしつつ、ヘブルから日本への文脈化を考えなければならないのです。

例えて言えば、これは、「もしパウロが現代の日本で宣教するとしたら、どのようにするだろうか?」と問うだけでなく、むしろ、当時神がローマ市民であったパウロを召されたように、今日、日本市民でもある正統派ユダヤ人を神が召されたなら、どのように用いられるだろうかという問題なのです。

これはあまりにも突拍子も無いことに思われるかもしれませんが、もしメシアニック運動なるものが日本で意味あるものとなるのであれば、決して非現実的な話ではありません。現に、本人は日本人ではないものの、日本人と結婚したメシアニックユダヤ人が存在し、既に有益な働きが始まっているのです。

もちろん、以上のことは、意識の持ち方の問題であって、日本人も、ただユダヤ人が日本で宣教してくれるのを待っているのではありません。ただ、私たちは西洋のキリスト教ではなく、ヘブル的福音を日本人にとって意味のあるかたちで伝えたいのです。


日本的キリスト教とメシアニック運動

明治期の多くの日本人キリスト者は、欧米のキリスト教抜きに、聖書そのものから学びたいと願い、実際にそれを追求したのですが、ヘブライ的ルーツとのつながりが十分できなかったこともあり、日本的キリスト教の発展の芽が摘まれてしまいました。以後、日本的キリスト教ということばは、単に右翼反動の代名詞になってしまった嫌いがあります。しかし、日本的キリスト教というのは、単に日本人の好みにあうように改変したキリスト教を意味するのではありません。そもそも、改変されていない「純粋な」キリスト教なるものなどないのです。もちろん、世間には、自分たちこそ「純粋な」キリスト教を守っていると主張する人たちは大勢いますが。

ですから、使徒時代の信仰に戻るというのは、当時の何か固定したキリスト教(あるいはユダヤ教ナザレ派)を想定して、それを復元しようということではなく、当時の運動を地理的歴史的文脈のなかで捉え、さまざまな制約や文化的特徴の根底にある霊的現実に帰るということなのです。そのうえで、その霊的現実が、日本という文脈のなかで意味あるものとして形をなしていかなければならないということです。

このことは、単にユダヤ的なものと日本的なものを混ぜるというのではありません。「霊的」という名のもとに、無制限に両者の要素を取り入ればよいこというのではないのです。また、安易に同祖論のように、ユダヤと日本を直結させて、その類似点を並べるということでもありません。類似点は類似点として、相違点は相違点として、冷静に把握されなければなりません。むしろ、異質なもののぶつかり合いによって生じる火花からこそ、真実なものが生まれてくると考えられます。

もちろん、これは単なる文化や文明の衝突というものではありません。むしろ、霊の次元において、ユダヤ人と日本人という異邦人が、絶対的に相容れないものとして対峙しつつ、その接点に十字架があって、ひとつとされ、新しい「ひとりの人」を形作るものでなければなりません。
いわば、ユダヤは日本に対して十字架につけられ、日本はユダヤに対してつけられたということがなければならないのです。

この「新しい人」はどこまでもひとりであり、しかもユダヤ人と異邦人は単にそのなかで解消されることはありません。もちろん両者は並列的に共存しているのでもありません。むしろ、お互いに否定しあう異質なものでなければなりません。その異質性を確保するものこそモーセ律法です。その意味で、メシアックユダヤ教はどこまでもユダヤ教であるところに意義があります。同時にその異質性、それも「敵意」とさえ呼ばれるほどの相互否定は、すべてが十字架によって解消されています。そこに、「メシアニック」である意義があるのです。

ここでいう十字架は、単に過去に一度起こった歴史的事件を指しているのではなく、歴史を超えて万人に当てはまる根源的事実のことです。この十字架が、「新しい人」の中心にあるのです。一般的には、十字架を2000年前の一事件としてとらえ、それ以前の「敵意」がその時なくなり、以後は両者の区別はなくなったと考えられています。これが所謂「置換神学」です。しかし、この神学は聖書の記述に矛盾しているだけでなく、歴史の現実にも反しています。そして、それを身をもって証言しているのがメシアニック・ユダヤ人なのです。

十字架の出来事は確かに一度限りのことです。しかし、霊的な出来事としての十字架は、時代を超えて聖霊の働きとして現前します。そして「新しい人」の中心にその十字架がある以上、ユダヤ人と異邦人の異質性を否定するならば、十字架の意義まで否定することになってしまうのです。

こういうわけで、一異邦人としての日本人も、あくまで十字架によって逆説的にユダヤ人とつながり、御国の共同相続者となります。その時、ユダヤ人は真のユダヤ人となり、日本人も真の日本人となるのです。それこそが、単に日本的なキリスト教を超えて、メシアニック運動が日本で行われることの根本的な意義でなければならないのです。