「ハケンの品格」〜大前春子と聖書(5)

 

前回では、森ちゃんの派遣としての自覚がサブのテーマとなっていましたが、今回は小笠原という嘱託社員が取り扱われます。
小笠原は、かつては腕の良い営業マンで、部長とも親しくしてきたのですが、今はマーケティング課の隅で、嘱託として細々と働いています。
今回は、この彼が契約更新を打ち切られるという所から、「社員」の世界が描かれていきます。

さて、冒頭のシーンでは、仕事もろくにせず、居眠りをしている小笠原に春子が消しゴムを投げつけて起こしますが、これを見た東海林は、春子の無礼な態度に怒ります。
それ自体ははもっともなことですが、その時に、「親にそうやって起こされてたのか!」と言うのが興味深いです。
東海林は知りませんが、春子は幼い時に両親を失っていたからです。
今回の話では、最後の方でも、「親の顔が見たい」と春子に怒鳴るシーンがあります。
春子は何の反応も見せませんが、内心どんな思いだったのでしょう。
ここに、「正論」のもつ危険性を見ることができるのですが、このテーマは後で大きく扱われます。

さて、このような「お荷物」状態の小笠原ですが、人事部は来月の契約更新をしないと決めます。
これを部長は自分から伝えず、賢ちゃんに伝えさせようとします。やり手で愛嬌もある部長ですが、このあたり組織のためには友情もなにもないという、冷酷というよりは卑怯な傾向を見せています。
もちろん、組織の人間である彼にそれを言うのは酷でしょう。
そして、小笠原を守りたい東海林や賢ちゃんであっても、組織内の存在としての限界をこの後見せつけられることになるのです。

賢ちゃんは、小笠原に手柄をたてさせ、契約更新に持ち込もうとします。
小笠原がふと口にした「塩むすび」を企画にするために、まず春子と小笠原をデパートの市場調査に送ります。
ところが、小笠原はデパートの売り物に夢中になり、調査をほっぽらかして迷子になる始末。
結局、春子がひとりで調査し、企画書にまとめます。そして賢ちゃんは企画を部長に持っていきますが、部長は取り合いません。
かえって春子に「小笠原をどう思うか」と聞きます。
春子は「派遣に社員の査定をさせるのか」と返しますが、部長の「外部の者のほうが客観的だ」との一言に、春子は「マーケティング課のお荷物だ」と答えます。
ここにも、「外圧」を利用して組織を守ろうとする構図が見えます。

これに怒った東海林は、仕事帰りに賢ちゃんと共に春子の店に行き、春子を糾弾します。
曰く「人を思いやる気持ちがないのか」「小笠原さんには家庭がある」云々。すべて正論です。
しかし一点を見逃しています。それは「正論を春子に言うという行為そのものの無意味さ」です。
春子は答えます。「派遣は3ヶ月ごとにリストラの恐怖にさらされている」「彼は会社に甘えて危機感がなさ過ぎた」。
東海林が小笠原のことを考え、リストラにあおうとしている人のことを思いやれと言うならば、その同じ彼が、容赦なく派遣社員を切っていけるのはなぜなのでしょうか。
また、小笠原には家庭はあるというのは正論ですが、家庭を持つことがゆるされない者の存在はどうなるのでしょうか。

ここに「正論」というものの問題があります。「正論」とは「道徳」と言い換えることができるでしょう。
なぜなら、どちらも「組織」「社会」の秩序を維持するという機能を持っており、その「秩序」からはずれる者にとっては、排除のための武器に他ならないからです。
秩序が不要だというのではありません。しかし、秩序は個人個人を守るためにあるのか、それとも集団の整合性を維持するためにあるのかという問題です。
これを「個人主義」対「全体主義」と言ってしまったら、問題を簡略化しすぎることになるでしょう。
これは、単に社会のシステムの問題を超えて、人間のあり方、それも自己矛盾を内包した人間のあり方の問題だからです。

このテーマは、聖書において「律法」と「信仰」という形で扱われています。
「律法」とは人としてなすべき正しい行いの規範で、社会にとって必須のものです。
それは単に社会の「法律」として明文化されたものだけでなく、「道徳」としての規範や社交辞令、祭儀等も含む広範なものです。
これらは必要かつ良いものですが、ひとつの問題を持っています。すなわち、律法は「人間一般」を扱うだけで、「個」を扱わないという問題です。
これらの「規範」の前提はこうです。「個は規範を守れば集団(社会)の秩序は守られる。それが、結果として個の益になる」というものです。
しかし、その前提は常に正しいわけではありません。そのため、全体主義や共産主義は破綻してしまったのです。
もちろん、その反対である「個人主義」が常に正しいのでもありません。
個々人すべてが良い行動を選択するならば、個人のことを考えるだけで結果として全体も良くなるでしょうが、現実はそうはいきません。
それで、社会対個人という枠組みでは、永久に物事は進展しないのです。

そこで、聖書では「律法」に対すものとして「個人」ではなく「信仰」が登場します。
信仰といっても、なにかの宗教的イデオロギーを信奉するということではなく、神との信頼関係、およびそこから生まれる個と個の信頼関係から成り立つ社会のことを言っているのです。
信頼関係というものは、個と個との間で成り立つものです。
それは、たとえ自分の立場が集団との関係において不利になったとしても、なお相手個人との関係を尊重するという要素を持つからです。

東海林や賢ちゃんは、小笠原という個人のことを思ってはいますが、発想はいまだ「正論」的です。
なぜなら、彼らの発想は、小笠原を会社の中に留めるということしかなく、「個」としての小笠原ではなく、小笠原の「立場」に焦点があるからです。
そのような「正論」は、小笠原を助けることができないばかりでなく、春子を傷つけるだけのものなのです。
もちろん「スーパーハケン」である春子は、傷ついた様子は見せませんが。

さて、S&Fに税務調査が入り、不正の疑いが持たれます。昔の手書き資料が必要になりますが見つかりません。
その時、春子は小笠原のネクタイをひっぱって、無理やり会社の倉庫に連れて行き、彼にその資料を見つけさせます。
パソコン音痴の彼ですが、昔、伝票が手書きだった時代は活躍していたことを知っていたからです。
小笠原の活躍で資料は整いますが、それを運ぶ途中でエレベーターが止まり、賢ちゃんと小笠原は閉じ込められてしまいます。
資料提出の期限が迫るなか、春子は「昇降機検査」の資格を活かして、ロープを使ってエレベーターに入り、二人を救出します。
その時、「資料には小笠原の会社人生が詰まっている」と言って、小笠原を送りだしています。
春子にとって、会社は小笠原の人生の「中」にある限りにおいて重要なのであって、会社のために小笠原があるのではないのです。

二人を救出した春子ですが、小笠原がロープを返してくれなかったので、ひとりエレベーターに取り残されてしまいます。
そこに助けにきたのが東海林です。それと知らずに投げられたロープを伝わって出口に上っていった春子ですが、助けたのが東海林だと知ってショックを受けます。
東海林にお礼を言うどころか、つかまれた腕を見て、「きたないから洗いに行く」と捨て台詞を残して去っていきます。
ここで、例の「親の顔が見たい」と言われるわけです。

例によって、夜のオフィスで東海林と賢ちゃんが語り合っています。
賢ちゃんは、「結局、自分は小笠原さんを助けられなかった」と嘆いています。
それに対して東海林は、「春子はインベーダーだ。自分たち会社に根をはっている人間が真似をしたら、会社からはじき出される」と現実をわきまえた発言をしています。
しかし、春子をインベーダーだと言ってすまされる問題なのでしょうか。

ラストのシーンでは、契約解除方針が撤回されたとのことで、部長がみなを誘って飲みに行きます。
もちろん春子は行かないのですが、別れる直前、小笠原が春子に「花道を作ってくれてうれしい。老兵は去るのみ」と
言って、契約更新しないつもりだと告げます。
それに対して春子は、「ナマコ(小笠原)はカッコつけないで、社員なら社員らしく会社にしがみついていなさい」と言い、感極まった小笠原のアップで幕は下ります。
どうやら、小笠原は退職するだけでは「個」になれないと見たようです。
確かに、やめる理由が「花道ができた」というのであるならば、いまだ「自分自身」ではなく「自分の立場」によって動いているにすぎないからです。

 

つづく