第3話
このドラマは全10話ですが、大きく三つの部分からなっています。まず第1部は1話から3話までで、正社員と派遣社員との対立を際立たせるストーリーです。第2部は4話から6話までで、両者の対立だけでなく、社員、ハケンそれぞれの持っている固有の問題も扱われます。また、社員とハケンの恋愛が伏線として現れ、対立の克服の可能性がほのめかされます。そして第7話から最終回までは連続したストーリーとなっていて、「ハケン弁当」という商品を軸に、第1部、第2部で扱われてきたテーマがからみあって、ドラマティックに展開していきます。
さて、第1部の最後にあたる第3話ですが、「正社員の友情・派遣の仁義」というサブタイトルがついています。このメインのテーマと同時に、サブの流れがあります。ひとりで外食できない森ちゃんが、他のハケンの仲間(派閥)に入れてもらう話です。この派閥の目的は合コンをして、あわよくば社員と結婚しようというものですが、ランチもあちこちの店を回ってグルメを楽しんだりしています。駆け出しハケンで給料も少ない森ちゃんには所詮無理なのですが、「友達」欲しさに付き合っています。それについて春子は、「一緒のことをするのが友達かね。そんなのは金魚の糞だね」と突き放します。真の「友達」とは何か? ここに聖書のテーマが登場しています。
そしてメインの流れですが、マグロの販売プロジェクトを手がけることになった東海林は、周囲の懸念もなんのその、「マグロの解体ショー」を企画します。小笠原さん(嘱託社員)が「ツネさん」のショーを見て感動したという話を聞いて思いついたのです。早速つねさんに頼もうとしますが、人気者の彼のこと、ショーの予定は半年先まで決まっています。代わりに出来そうな人もなかなかいません。そんな時、合コンをしていた森ちゃんが、たまたまその店でツネさんを見つけます。彼女は春子に電話しますが春子は相手にしません。直後に、桐島部長、東海林、賢ちゃんの3人が春子の店に来ます。彼女はカウンターの裏に隠れますが、3人の会話を聞いています。
その会話ですが、春子のことを持ち上げる部長にむかって、東海林は「自分は家族(社員)と仕事がしたいのであって、ハケンなどよそ者だ」と言います。東海林が入社した時に、部長が「会社は家族だ」と言ったのに感動したそうです。部長は、時代が変わったのだから、コストダウンのためにハケンを遣うのは当然だと答えます。賢ちゃんが、市場原理だの自由化だの時代の流れを語ったり、いかにもお仕事ドラマ風な会話になりますが、ここでのキーワードは第1話の最後の場面と同様「家族」です。東海林は会社に家族的なものを求めているわけですが、その会話を聞いている春子には家族がありません。幼い頃に両親と別れたらしいのです。では、春子はその育ちの故に、東海林の言う「家族的」なるものが理解できず、仲良くなることができないのでしょうか? それとも、東海林は「家族」を誤解しているのでしょうか。
しかし、この会話は、森ちゃんがツネさんを発見したという会社からの電話で中断します。東海林と賢ちゃんは早速ツネさんのいる店に駆けつけます。そして、東海林はその巧妙な営業トークで、ツネさんを説得し、来る土曜日にショーをしてもらうことになります。しかし、ショーを翌日に控えて、マグロを見ていた東海林はツネさんに「本当に全部さばけるのか」などと、会社の都合と商売優先の話をして、お客様第一のツネさんを怒らせてしまいます。そして、東海林を振り切ったツネさんは台車に接触し、利き腕を骨折してしまいます。仕入れたマグロは夜にはデパートに到着し、広告も打った以上、解体師の代役を探すしかない東海林ですが、営業部の人たちは非協力的です。しかし賢ちゃんだけは親友である東海林を助けたい一心で、マーケティング課をあげて代役を探しますが、まるで見つかりません。
代役が見つからなければ、自分の首も飛ぶと叫ぶ緑川店長に、東海林も辞表の覚悟を決めます。翌朝賢ちゃんは春子の店に行き、彼女は緑川店長の信頼が厚いから一緒に謝りに行ってほしいと頼みますが、ハケンの自分にそれを依頼するのは筋が違うと断られます。
いよいよショーの時間ですが、東海林たちは満員のお客を前に頭を下げて解体ショーの中止を伝えます。そして、東海林がデパートの本部長に土下座しているちょうどその時、店内のアナウンスが解体ショーの開始を伝えます。なんとそれは、「ハルちゃんの解体ショー」の始まりだったのです。彼女の見事なショーに皆は大喜びで、命拾いした東海林の目には涙が浮かびます。
週が明けた月曜日の朝、出社した春子に、部長は解体ショーのための休日出勤手当てを払うと言いますが、春子は断ります。理由は「自分は会社のためにショーをしたのではなく、ハケン友達のツネさんのためにしたのだ。自分たちは穴があけられない、いわば毎日刃の上を渡っている身だから、お互い助け合うのは当然だ」からです。タイトルは「派遣の仁義」ですが、春子は「友情」と言っています。実は、春子は以前ツネさんのところで働いていたことがあるのですが、しかしこれは義理でも会社のつながりでもなく、友情なのです。
東海林と賢ちゃんの友情は勿論本物です。賢ちゃんとしては、会社のピンチを救うことで東海林を助けようとし、それがかなわなくなると、会社対会社の関係の悪化を減少させることで東海林を助けようとします。その為に春子に頼みこんだわけですが、春子を「利用」しようとしたには違いありません。ですから、私情を混同するなと春子に一蹴されてしまうのです。言い換えれば、東海林と賢ちゃんの友情には、「会社」というしがらみがあって、制約を受けているのです。会社への帰属という前提から自由でないために、友情、すなわち善意はあっても他者を救うことが出来ない状態を表しています。
イエスが地上を歩んでおられた時に彼に付き従っていた多くの弟子たちが、イエスに対して真の尊敬と善意を持っていたことは疑う余地がありません。しかし彼らが主と仰ぎ、来るべきメシアだと信じていたイエスが、イスラエル共同体から追い出され、十字架刑に処せられてしまったとき、彼らは全く無力だったのです。なぜなら彼らは、共同体に帰属していることによって自らのアイデンティティーを維持していたのであって、それを捨てない限り、イエスの弟子として歩みつづけることは不可能だったからです。まことに「自分のいのちを得ようとする者はそれを失う」のです。
対する春子にとって「友情」とは「帰属先」を共有することではありません。ツネさんと春子はそれぞれ別の道を歩んでいます。東海林に言わせれば「勝手に生きている」連中なのです。言い換えれば「個」のアイデンティティーを持っているのです。しかしながら、その「個」とは、自分自身の為に勝手に生きるのではなく、ツネさんが言うように、人に喜んでもらうために生きるのです。その為には、「集団」から離れ、「帰属」による安心を捨て、まさに毎日刃の上を渡るように生きることを余儀なくされるのです。そして、まさにそのような「個」と「個」が「穴を埋めあう」、すなわち自発的な「契約」関係に生きるときに、そこには義理でも、集団の制約を受けたものでもない、真の友情の可能性が開かれてきます。そして、その友情が、「結果的」に、会社を救い、その集団に帰属している人々をも救うこととなるのです。まさに、「自分のいのちを捨てるものは、それを得る」のです。イスラエル共同体から捨てられたイエスこそが、イスラエルを救うメシアなのです。
つづく