ラッパの祭りについて

 

「イスラエル人に告げて言え。第七月の第一日は、あなたがたの全き休みの日、ラッパを吹き鳴らして記念する聖なる会合である。
どんな労働の仕事もしてはならない。火によるささげ物を主にささげなさい。」

(レビ記23章24,25節)


西暦1998年は、9月20日の日没より、ラッパを吹き鳴らして記念する聖なる会合の日(ラッパの祭り)が始まります。

ここで吹き鳴らされるラッパとは、ショーファー(Shofar)という角笛で、ユダヤ人に畏怖の念を呼び起こさせる音を発します。というのは、シナイ山に神が降りてこられ、モーセを通してトーラー(律法)をイスラエルに授けられた時、山全体に鳴り響いていた音が、このショーファーの音だったからです。(もちろん、この時は、神のショーファーが鳴り響いていたのでしたが。)

ですから、この角笛の音は、神からの呼びかけを象徴していて、あたかも、「イスラエルよ、目覚めよ!」と呼びかけているがごとくです。もちろん、今日、神はイスラエルのみならず、私たち異邦人にも呼びかけています。

では、神は、私たちに何を呼びかけているのでしょうか。


第一に、「神の主権に目覚めよ」と呼びかけています。

「ラッパの祭り」の日、すなわち、第7の月の第1日は、「ロシュ・ハシャナー」(年の頭)と呼ばれる新年の日でもあります。この日をもって、ユダヤ歴5759年が始まりました。

なぜ、第7の月が年の頭なのかと言えば、ユダヤの伝統によれば、これが天地創造(あるいはアダムの創造)の日でもあるからです。

人々は、日ごろ日常生活に埋没し、神を忘れてしまいがちです。そして、まるで人間が世界のすべてを動かしているかのように思い上がったり、反対に、自然そのものが神であるかのように思い込んだりします。

しかし事実は、神が天地万物を創造されました。すなわち、神が主権をもっておられ、目には見えなくとも、歴史を導いておられるのです。ですから、この日は、単に新しい年が始まったというだけでなく、神の創造と主権を思い出し、この年も神ご自身が導いていかれることを確認する大切な日なのです。私たちは日常生活に埋もれている状態から目覚め、この神の呼びかけに応答しなければなりません。


第二に、「ラッパの祭り」は、悔い改めの日です。実は、この祭りの前の月、すなわち、第6の月から、すでに悔い改めの期間に入っていました。そして、この祭りをピークとして、さらに10日後の「ヨム・キプール」(大贖罪日)を迎えるのです。

ユダヤの伝統では、「ラッパの祭り」の日には、神が「いのちの書」を開かれ、人々の行いを裁き、来たるべき世界にふさわしい者の名は、その書に記されると考えられています。この日に記されなかったものには、さらに10日の悔い改めの猶予が与えられ、大贖罪日に書は閉じられるとも言われています。

とはいえ、実際には、人々の悔い改めと神の裁きは、この期間だけに限定されたものではありません。ユダヤの伝統でも、「この季節になったら悔い改めればよい」と言って、それまで悪事を働くような者には、赦しは与えられないと考えられています。

ですから、「ラッパの日」は、単にその日に悔い改めるというのではなく、むしろ、悔い改めの生活を思い出させるための、いわば、レッスンの日であると言えるでしょう。

では、「悔い改め」とは何でしょうか。

日本でも、年末になると、忘年会を開いたり、除夜の鐘を聞きながら、古い年を忘れ、心機一転、新年を迎えます。もちろん、多少の反省をしたり、新しい決意もするでしょう。しかし、根本は、過去を忘れ、水に流すというところにあるようです。

ユダヤの「悔い改め」とは、反対に、「覚える」ことです。「悔い改め」(テシュバー)ということばの根本的な意味は、「帰る」であって、自分の罪を覚え、反省するだけでなく、神を覚え、神のもとに帰ることなのです。あたかも、角笛の音とともに、神が、「わたしのところに帰りなさい!」と呼びかけているがごとくです。

この神の呼びかけは、神から離れようとするものにとっては邪魔なものであり、神に反抗するものにとっては、恐ろしい裁きの声ともなるでしょう。しかし、神に帰りたい者にとっては、親の愛情あふれる呼び声にほかならないのであって、私たちは、この音を聞きながら、神から離れていたことを反省し、お詫びし、神のところに帰るのです。


第三に、「ラッパの日」は、メシア来臨をあらわす日です。

神は、ただ私たちに「帰れ」と呼びかけるだけではなく、やがて、メシアをとおして、自ら私たちを迎えに来られます。

パウロは、神のラッパの響きとともに、イエスが天から降ってこられ、死者を復活させ、彼を待ち望んでいる者を引き上げられると言っています。この終末の詳細については様々な議論があるものの、根本的なメッセージは明瞭です。すなわち、やがて神ご自身が地上に直接介入され、ご自身の民を集め、神の国を完成させるということです。

人が自力で神のところに帰るのではなく、帰ろうとする人々を神ご自身が引き寄せてくださるということ。これが福音です。そのために、メシアはすでに一度この世に来られ、その死によって罪のゆるしの道を開いてくださいました。ですから、私たちは、大胆に神のところに帰ることができるばかりでなく、やがてメシアご自身が戻ってこられ、救いのわざを完成してくださるのです。

今、私たちは角笛の音とともに、このメシアの救いを思い出し、神のラッパが鳴り響き、メシアが再臨される日を待ち望むのです。

シャローム!