七週の祭り(シャブオット)にちなんで

過ぎ越しの祭りから七週すると、次の祭りであるシャブオットになります。 今年(1998年)は5月30日(土曜日)の日没から始まります。

シャブオットとは、週(複数)の意味ですが、実際には7週プラス1日なので、日本語では七週の祭りと呼んでいます。

また、日本語聖書では、五旬節とも書いてありますが、これはギリシャ語のペンテコステと同様、50日目ということから来ています。(50日の正確な数え方については、ここでは触れません。)

シャブオットは、聖書(レビ記23章15節から)などにあるとおり、基本的には収穫の祭りです。イスラエルでは、過ぎ越しの季節以後、強い熱風の危険を乗り越え、50日もすると収穫がやってきます。そこでこの収穫の初穂を主なる神にささげるわけです。(神殿がなく、ささげものを持っていけない現在も、イスラエルでは家を花などで美しく飾って感謝をささげます。)

聖書に直接書いてあるのはそれだけですが、シャブオットは同時にシナイ山でトーラー(律法)が与えられたことを記念する日でもあります。聖書には、イエスラエルがシナイ山に到着したのは第3の月(つまりシャブオットの季節)と書いてあるだけで、厳密にトーラーが与えられた日がいつなのかは特定できませんが、伝統的にシャブオットの日に祝うことになっています。しかも、イスラエルは、この律法付与を持って国として成立したと見なされています。

では、過ぎ越し(すなわち出エジプト)だけでは十分でなく、50日後のシャブオット(トーラーの付与)まで待って、イスラエルが成立したのでしょうか。

言うまでもなく、出エジプトとは、奴隷状態からの解放です。これは一方的な神の恵み(ある意味では神の実力行使)によってなされました。しかし、解放されて自由になったのは何のためかが問題です。イスラエルがエジプトから解放されたのは、天地創造の唯一の神に仕える祭司の国となるためでした。祭司の国とはなにか、それがまさにトーラーの内容に他なりません。イスラエルは、享楽のためではなく、聖なる使命を帯びるためにこそ解放されたのです。この使命を明確に受け入れた日、それが律法付与の日であり、シャブオットなのです。

イスラエルはこの聖なる使命を全うしたでしょうか? 答えはイエスでもありノーでもあります。ノーというのは、聖書を読めばすぐわかるとおり、彼らはトーラーを実践すると口ではいいながら、すぐに金の仔牛を作り偶像礼拝をしてしまいました。その後も、神はしばしば預言者などを遣わし、彼らを導こうとされましたが、イスラエルの心はかたくなになり、祭司の国にふさわしくない状態が続きました。いいかえれば、彼らはトーラーを持ってはいても、彼ら自信が生きたトーラーとはなりきれなかったのです。

そこで神は預言者エレミヤをとおして言われました。(エレミヤ31章31節ー34節)

見よ。その日が来る。・・主の御告げ。・・その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。
その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。・・主の御告げ。・・
彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。・・主の御告げ。・・わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
そのようにして、人々はもはや、『主を知れ。』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。・・主の御告げ。・・わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」

イスラエルは神との契約を破ってしまいましたが、神はそんな彼らを見捨てず、契約を更新するというのです。その更新された契約(いわゆる新約)とは、今までの律法と別の律法が与えられるというのではありません。トーラーはトーラーですが、その新しさは、律法が石の板や巻き物にただ書いてあるのではなく、心に直接書き記されるというところにあります。

シナイ山で、神は直接2枚の板に十戒を書きました。また、人の手によって、巻き物にトーラーの文字が刻まれてきました。しかし、更新された契約においては、聖霊が直接人の心にトーラーを刻んでくださるのです。これによって始めてイスラエルの中で、トーラーは人々の血となり肉となることができます。人の力だけでは、トーラーはあくまで文字であり、人々はトーラーに違反するものとして裁かれてしまいますが、聖霊によってトーラーが内在化されると、人々が生きたトーラーにされていくのです。

この聖霊の働きはどのようにしてもたらされるのか? それは、まさにメシアによってもたらされるのです。なぜなら、聖霊はメシアの霊だからです。イスラエルは、このメシアを待ち望んでいました。(そして今も待ち望んでいます)。イスラエルを完成するメシアを待ち望み、その準備をするという意味において、彼らは祭司の国としての使命をはたしていると言えます。

そのメシア待望がひとつのピークとなっていた約2000年前に、一人のナザレ人、イェシュア(イエス)が現われました。彼は、3年半ほどの宣教活動の総決算として、過ぎ越しの食事において、契約の更新を宣言されたのです。すなわち、自らの十字架の犠牲によって、イスラエルの契約違反の罪を帳消しにし、復活によって、新しい時代を開始をされました。そして、彼を受け入れる人に、罪の奴隷からの解放をもたらしてくださったのです。

それだけではなく、復活から50日目のシャブオットに、約束されていた聖霊を注ぎ、新しい契約を実効あるものとされました。この聖霊の働きによって、今やトーラーが人々の心に直接書き記されるようになったのです。

このようにして、神はイスラエルを見捨てず、契約を新たにし、次にメシアが来られ神の国が完成する日まで、祭司の国としての使命を果たさるように導いていてくださいます。しかも、この使命はイスラエルにとどまらず、今や、イェシュアを受け入れる異邦人にも与えられるという、驚くべきことが明らかになりました。聖霊は、ユダヤ人にも異邦人にも、イェシュアを信じるものすべてに与えられるのです。

この異邦人をも含めた収穫の時、これがシャブオットです。はじめに、シャブオットは基本的に収穫の祭りであると述べました。しかし、これは単に農業の収穫だけではありません。神が御自身の民を収穫してくださる時でもあるのです。

ですから、シャブオットでは、伝統的にルツ記が読まれます。いうまでもなく、ルツは異邦人でありながら、イスラエルに自ら帰属し、収穫の季節にボアズによって贖われ、(すなわち結婚し)、ついにはダビデ王、そしてメシアの先祖に加えられた人です。ですから、ルツは来るべき異邦人の収穫の型なのです。そして、イェシュアによって聖霊が激しく注がれた、あのシャブオット以来、異邦人の収穫が今日まで続いています。

そして、シャウル(パウロ)が書いているように、この異邦人の収穫が完成するときに、ユダヤ人の収穫も完成し、「こうして、イスラエルはみな救われる」(ローマ11:26)でしょう。

この大収穫にむかって、今や多くのユダヤ人がイェシュアに立ちかえっています。そして、聖霊によって、ユダヤ人と異邦人からなる、メシアのからだが形成されつつあるのです。