福音とは?

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A:最も大切なこと(ユダヤ人・異邦人共通の救いの土台)

<第1コリント15章1−11節>

B:キリストについての初歩の教え(ユダヤ人・異邦人共通の信仰の土台)

<へブル6章1,2節>

C:信徒が守るべきこと(異邦人のための戒め)

<使徒15章28,29節>

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A:最も大切なこと

「福音」のエッセンスであり、私たちが救われるために、しっかりと保っているべきことばが、第1コリント15章の初めの部分に書かれてあります。著者は使徒パウロです。

3節以下、整理するとこのようになります。

 

1.キリストが、私たちの罪のために死に葬られたこと。

2.キリストが、3日目によみがえられたこと。

3.以上は、「聖書」に示されているとおりであったこと。

4.復活したキリストが、ケパ(ペテロ)をはじめ、12弟子や、その他の多くの人々に現われ、その後、ヤコブとすべての使徒たちに現われ、最後にパウロに現われたこと。

それでは、ひとつずつ見ていきましょう。


A−1:キリストが、私たちの罪のために死に葬られたこと。

この文を、さらに3つに分解すると、「キリスト」、「死」、「私たちの罪」となります。

 

A−1−1:キリスト

「キリスト」とは、ヘブライ語の「メシア」のギリシャ語訳で、「油を注がれた者」という意味です。イスラエルで「油が注がれる」といえば、神の聖霊が注がれることの象徴ですが、

ここでは特に、イスラエルの「王」であり同時に「大祭司」であって、来るべきメシアの時代に、全世界を統治する存在を指しています。

「来るべきメシアの時代」とは、「復活の時代」とも、「後の世」とも呼ばれ、人類と自然界が、今の堕落した状態から解放され、神の義と平和が支配する楽園が回復する時代のことです。この「来るべき時代」は、単なる現在の延長ではなく、メシアの統治によって実現することから、「メシアの時代」と言われるのです。

さて、その「メシア」、キリストは、全人類の「主」であると同時に、イスラエルの王と大祭司を兼ねる存在ですが、これは、きわめて特殊な存在です。

というのは、イスラエルにおいては、政治的リーダーである王と、宗教的リーダーである大祭司は、いつも別の人が担当していて、ひとりが兼ねることはないのです。

この両者が統合された「祭政一致」の絶対的な存在というのは、メシアをおいて他にありません。欠陥ある人間が、この地位に就こうとしたしたとき、いかに多くの悲劇が生まれてきたかは、諸国の歴史が証明しているとおりです。

メシアだけが、罪なき統治者として、地上に正義と平和を実現し、また完全な祭司として、人々を神につなげるのことができるのです。

 

A−1−2:キリストの死

この、メシアの時代に出現するおかたは、単なる人間ではなく、実は、世の初めから存在しています。永遠の統治者は、御自身が永遠の存在でなければならないからです。

この、永遠に生きておられるメシアが、驚くべきことに、一度死なれたというのが、福音のメッセージです。

永遠に生きておられるおかたが死ぬなどということが有り得るのでしょうか。

実に、この点にこそ、多くのユダヤ人がつまずいたのでした。しかし、メシアの死なくして福音はありません。

メシアが死んだということは、永遠の存在であるメシアが、死ぬべき私たち人間と同じになられたということです。これは、メシアが、あらゆる点で私たちの人間的な弱さに同情できる、完全な祭司となるためでした。<ヘブル4章15節−5章10節>

したがって、メシアは人間を、「上から」支配するのではなく、私たちと同じ土俵に立って、正義と平和を実現されるのです。

キリストが葬られたというのも、この点を確認しています。

メシアは、人間として確かに死んで葬られた、この歴史的な事実が福音の出発点なのです。

 

A−1−3:私たちの罪のために

メシアは、そもそもなぜ人となり、死ななければならなかったのでしょうか。

それは、「私たちの罪のため」です。

これには、一般的な意味と、限定的な意味と両方があります。

 

まず一般的な意味を見てみましょう。

「罪」とは、「的外れ」という内容の言葉です。人として、神の基準から外れていることを指しています。

すべての人は、アダム以来、なんらかの形で、神の基準からそれています。それは、個人の生活においても、家庭や社会の秩序においても言えます。さらに、自然界でさえ、人類の堕落にあわせて、「虚無に服している」状態です。

すなわち、全世界は、秩序を求めながら混乱へ、いのちを求めながら死へと向かっていく状態、すなわち、「滅びに向かっている」状態にあるわけです。

これは、そもそも、人が神に背き、神の基準ではなく、自分の勝手な基準によって歩んでいることに原因があります。つまり、「不信仰と不従順」がすなわち罪の根源であると言えます。

この状態から、「信仰と従順」の状態に変わること、これが「救い」の出発点であり、そこから進んで、ついには、楽園の回復に至るのです。

このために、メシアは人となって、完全な信仰と従順を地上にもたらすことが必要でした。<ピリピ2章5−9節>

メシアは、十字架上の死、すなわち最も卑しい死を味わうことによって、人間の最低の線にまで降りてくださいました。これは、神の聖なる意志に完全に従ったことであって、どん底にある人間の立場にまで降りて、人々をそこから救い出そうという、神の愛のあらわれなのです。

では、このメシアの完全な信仰・従順が、なぜ私たちの救いになるのでしょう?

それは、メシアの信仰・従順は、彼自身のためではなく、私たちに提供するするために為されたことだからです。

メシア御自身は、永遠の神の御子であって、なんら救いを必要とはしていません。しかし、彼は人となって信仰・従順をあらわし、新しい人類の「初穂」となられたのです。

私たちは、このメシアを救い主として信じ、受け入れることによって、彼の信仰・従順を受け取ることができます。これは、恵みとして、無償で与えられるもので、そこには、ユダヤ人と異邦人の差別はありません。だれでも、「主の名」、すなわち、メシアなるイエス(イェシュア)の名を呼び求める者は救われるのです。

<ローマ10章13節>

これは、私たちが主の名を呼ぶ時、メシアが私たちを、ご自身の兄弟としてくださるからです。

メシアが私たちの罪をご自身に背負い、私たちがメシアの信仰・従順による「義」、すなわち、神の前での正しさを受け取ること・・この、驚くべき交換条件が提供されている、これが、「福音」すなわち、良い知らせと呼ばれている所以なのです。

 

また、より限定的な意味もあります。

「私たちの罪」の「私たち」とは、より限定的に言えば、ユダヤ人のことです。

パウロは、(そして言うまでもなくメシアも)ユダヤ人なので、しばしば、異邦人に対して「あなたがた」と呼びかけ、自分たちユダヤ人を「私たち」と呼んでいます。

メシアの死が「私たちユダヤ人のため」というのは、どういう意味でしょうか?

メシアは、すでに述べたように、まず第1に、ユダヤ人のメシアです。すなわち、イスラエルの王であり、永遠の大祭司なのです。それなのに、イスラエルは、彼をメシアとして受け入れませんでした。ここで、誤解してはいけないのは、ユダヤ人が皆、メシアを拒否したのではないということです。言うまでもなく、イエス(イェシュア)の弟子は、はじめ、全員ユダヤ人でした。「使徒の働き」を読むと、急速に、大勢のユダヤ人が、イエス(イェシュア)をメシアとして受け入れたことがわかります。

しかし、イスラエルの国家としては、イエス(イェシュア)を王として受け入れず、十字架にかけてしまいました。(厳密には、ローマ人ピラトに引き渡して処刑させたのですから、処刑の直接の当事者は、異邦人であるローマ人ですが。)

またパウロも、以前はイエスに従うユダヤ人たちを異端者として迫害していました。

自らのメシアを拒否し、その弟子たちを迫害すること・・これが、「私たち(以前のパウロを含めた、イエスを信じないユダヤ人)の罪」です。

この罪を悔い改めなかったイスラエル国家は、メシア昇天後およそ40年後に、神の裁きにあい、エルサレムは陥落し、イスラエルは以後1880年ちかく、地上から姿を消してしまうのです。それほど、この罪は大きなものでした。

 

それでは、神は、この罪のゆえに、イスラエルを捨ててしまったのでしょうか?

絶対にそんなことはありません。<ローマ11章>

パウロははっきりと書いています。イスラエルの一部が心をかたくなにし、メシアを拒否したのは、実は、救いの恵みが異邦人に及ぶためであり、異邦人の完成とともに、「イスラエルはみな救われる」のです。

その準備の第1歩として、1948年にはイスラエルがこの地上に復活し、今や、全世界から、離散していたユダヤ人たちが、祖国に帰還し始めています。

このように、メシアが「ユダヤ人の罪のために」死なれたのは、ユダヤ人の一部のかたくなさをとおして、福音を異邦人にも提供し、ついにはユダヤ人をも回復して、ユダヤ人と異邦人からなる、「メシアのからだ」と呼ばれる共同体を作り上げるためでした。

メシアの死には、途方もない神のご計画が秘められていたのです。


A−2:三日目によみがえられたこと

 

キリストが十字架の上で死んだのが、ユダヤ歴の第6日(太陽暦の金曜日)の午後であり、日没、すなわち、第7日の安息日が始まる前に、遺体は墓に葬られました。

安息日は、ユダヤ人は会堂で礼拝する以外に出歩きません。太陽暦の土曜日の日没と共に週の初めの日が始まり、日が昇り始めるころ、すなわち、太陽暦の日曜日の早朝、イエスに従っていた幾人かの女性が、遺体に香料を塗るために、墓に向かいました。

そこで彼女たちが目撃したのは、空となっていた墓でした。イエス(イェシュア)の体はそこにはなく、その後、弟子たちは、復活したイエスに幾度となく出会うことになります。

イエス(イェシュア)の復活は、多くのことをあらわしていますが、ここでは、基本的なことをいくつか見てみましょう。

 

復活は、神が全能であることを証明しています。

神といっても、人間、生き物や物体などをかたどっただけの偶像もあれば、全知全能といっても観念だけの抽象的な神もあります。

しかし、天地万物を無から創造された神は、死者をよみがえらせることによって、正真正銘全能の創造者であることを証明されました。

逆に言えば、死者をよみがえらせ、永遠のいのちを与えることのできるおかただけが、本当の神なのです。

 

復活は、イエス(イェシュア)が神の御子であることを公にあらわしています。

十字架刑というのは、最も重い犯罪者を処罰するためのものです。

イエス(イェシュア)は、復活により、実は、犯罪者ではなく、聖なる神の御子であることを示しました。したがって、彼の死は、彼自身の罪のためにではなく、私たちのためであったことがはっきりしたのです。

 

復活は、イエス(イェシュア)が、新しい人類の「初穂」であることをあらわしています。

正義と平和が支配するメシアの時代に生きる人々は、死から復活した「新人類」です。

それで、その時代は、復活の時代とも呼ばれています。復活の時代は、ただ単に社会が平和になるというだけでなく、アダムの堕落以来人類を悩ませている大問題、すなわち、死が滅ぼされ永遠のいのちが支配する時なのです。

ですから、その時代に生きるには、人々も永遠のいのち、すなわち死を乗り越えた不滅のいのちを持っていなければなりません。

イエス(イェシュア)は、「初穂」すなわち、第1番目の復活者として歴史に登場し、イエスに従うものたちに、将来の復活を保証していてくださるのです。

このように、復活によって、神が真実の神であり、イエスが真実のメシアであることが明らかにされ、また、将来の復活の時代を保証されています。

また、復活は、将来完成する肉体の復活だけでなく、現在においても、罪にまみれいのちを失っている魂が、メシアとつながることによって新しいいのちを受けることをもあらわしています。メシアの復活は、私たちに、あらゆる種類の敗者復活の可能性を提供しているのです。


A−3:「聖書に示されているとおり」

メシアの死と復活は、たまたま起こったことではなく、「聖書」に示されていたことでした。

では「聖書」とは何でしょうか。イエスの時代の「聖書」とは、おおまかに言えば、現代において、俗に「旧約聖書」と呼ばれているものです。(いわゆる新約は、メシアの復活後数十年の間に書かれました。)

ただし、この「旧約聖書」というのは、ふさわしい呼び方ではありません。むしろ、ヘブライ語聖書、あるいは、ユダヤ人の言い方をならって、「タナハ」と呼ぶことにします。

では、「タナハ」とは何でしょうか。

 

A−3−1:「タナハについて」

「タナハ」(英語のアルファベットで書けば、TNK)とは、ヘブライ語聖書の3つの部分の頭文字を並べたものです。

3つの部分とは、「トーラー(律法)」、「ネヴィイーム(預言者)」及び「ケトゥビーム(諸文書)」です。もっとも、「律法と預言者」とだけ並べて、タナハ全体を指すこともしばしばあります。(イエスご自身が、そのような使い方をされています。)

ここで、「トーラー(律法)」とは、創世記から申命記までの、いわゆる「モーセ五書」で、天地創造からイスラエルの成立、そして、シナイ山で神とイスラエルが交わした、シナイ契約(十戒にはじまるユダヤ律法)が記されていて、聖書全体の根幹部分をなすものです。

「ネヴィイーム(預言者)」は、イスラエルの約束の地での定住と以後の歴史、及び、様々な預言者の言行録」となっていて、イスラエルが「トーラー」をいかに守ったり、破ったりしてきたかの記録とともに、それに対する神のメッセージが預言者をとおして書かれています。

「ケトゥビーム(諸文書)」は文字どおり様々な文書の集大成で、詩篇(賛美の詩や歌)、箴言(格言)や、その他の物語などが集められていますが、中でも特に詩篇は多くの人々に親しまれていると同時に、メシアに関する預言的なメッセージも含まれています。

 

このような「タナハ」には、メシアを予告する文章が、あちらこちらに含まれていますし、

また一見メシアとは関係のないように見える部分でも、しばしば、メシアに関する神の計画を暗示しています。これらの部分が、メシアを指し示し、特に、その十字架と復活を示しているというのが、「聖書に示されているとおり」ということの意味です。

視点を変えれば、メシアの言動は、「タナハ」によって権威づけられているということです。

このメシアの言動と、それを伝えた弟子たちの言動を記録したのが新約の諸文書です。

「トーラー」という根本的な啓示の土台の上に、「預言者」によって、その具体的な運用のありさまが啓示され、さらに「諸文書」によって、それが生活のあらゆる分野に適用されていく、そして、そのすべての土台の上に、メシアの到来によって、すべての集大成としての啓示があらわされた、これを証言したものが「新約」の諸文書ということになります。

メシアの死と復活は、「タナハ」に示されているとおりである、すなわち、死と復活は、「タナハ」の権威によって、その真実性が保証されているというのが、「新約文書」の主張です。

ですから、このことを理解するためには、その前提として、まず、「タナハ」の権威が認められていなければなりません。権威あるものによって保証されて、はじめて権威付けに意味があるのですから。

そもそも、「タナハ」、特にその土台であるトーラーの神的な権威については、ユダヤ人にとっては問題ではないでしょう。そもそも、トーラーなくして、イスラエルやユダヤ人は存在さえできなかったでしょう。

しかし、異邦人にとっては、聖書は、単にひとつの宗教書として見なされてしまいがちです。

聖書が、いかに正確に保存されてきたか、いかに多くの言葉に翻訳され、いかに多くの人々に影響を与えてきたか等、聖書の独自性と卓越性を証明しようとする議論がたくさんあり、それぞれに耳を傾けるべき点もありますが、結局のところ、聖書、すなわち「タナハ」は、ユダヤ人の書物であるという原点から離れることはできません。

このユダヤ人の書物が、ただユダヤ人のためだけの書物であったなら、それまでのことであって、異邦人には関係のない話です。

しかし、現実には、ユダヤ人の歴史は、世界の歴史に深く関わっており、そのユダヤ人の存在を文書化したものであるといってもいい「タナハ」も、世界を動かし続けています。そして、その焦点に、メシアがいるのであって、このことは、いかなる異邦人にとっても重要な意味を持っているのです。聖書が全人類のための本である所以です。

ですから、私たち唯一の神とそのメシアを信じる異邦人も、根本的にユダヤ的な文書である聖書を土台としていることを忘れてはなりません。

 

A−3−2:「タナハ」におけるメシアの啓示について

 

「タナハ」におけるメシア像に関して

「タナハ」に含まれているメシアの預言は、あまりにも膨大であって、ここで取り上げることはできません。メシアがやがて来られ、イスラエルを回復し、全世界に正義と平和を打ち立てるというのは、聖書のメッセージ、そしてユダヤ人の信仰の根本のなかの根本であって、その内容を網羅しようとすれば、それだけで一冊の本が書けることでしょう。

しかし、パウロがわざわざ、「タナハ」に示されているとおりメシアが死んで復活したと述べているのには理由があります。

やがて来られ、地上に楽園をもたらすメシア、これを、栄光のメシアと呼ぶことがありますが、この、栄光のメシアが、一度死ななければならないということは、驚くべきことです。この、死ぬメシア、いわゆる受難のメシアは、確かに、イザヤ書の53章や、詩篇22章、あるいは、ゼカリヤ書12章などに示されてはいますが、この受難のメシア像と栄光のメシア像があまりにもかけはなれているため、両者がどうつながるのかについて、さまざまな推測がされてきました。

その中には、まず、ヨセフの子であるメシアが来て、終末の戦いにおいて死に、次に、ダビデの子であるメシアが来て、前者をよみがえらせ、最終的な勝利をおさめるであろう、というような説もありました。

しかし、パウロがここで言っているのは、受難のメシアと栄光のメシアはひとりであって、両者をつないであるのが、メシアの復活だということです。そして、現実に死んで復活したナザレのイエス(イェシュア)こそ、そのメシアの他ならないというのが福音のメッセージなのです。

 

「タナハ」における、メシアの「予型」について

「タナハ」には、メシア像や、メシアの生まれる場所など、預言的な文章が書かれていますが、そのような直接的な預言以外にも、「予型」と呼ばれるものがあります。

「予型」とは、神がイスラエルに与えた律法のさまざまな規定が、メシアのいろいろな要素をあらかじめ型として表わしているものです。

代表的な「予型」として、「トーラー」に規定された、イスラエルの暦があります。なかでも、「主の例祭」と呼ばれる祭りが、メシアの到来を事前に説明しています。

「主の例祭」は、毎週の安息日(シャバット)をはじめ、過ぎ越しの祭り(ペサハ)、7週の祭り(シャブオット)、ラッパの祭り、大贖罪日(ヨム・キプール)仮庵の祭り(スコット)があり、イスラエルの1年の節目を形成しています。

イエス(イェシュア)は、実際に、過ぎ越しの祭りに、「過ぎ越しの(神の)こひつじ」として死なれ、この祭りの最中に行われる、「初穂を揺り動かす儀式」の日に、墓から復活されました。また、それから50日目にあたる7週の祭りの日に、イエスが約束していたとおり、天から神の聖霊がくだりました。7週の祭りは、収穫の祭りであると同時に、シナイ山において、モーセをとおして神から律法(トーラー)を授かった記念すべき日です。この日に神とユダヤ人は律法の授与によって契約をかわし、神の民イスラエルが正式に誕生したのです。そして、イエス昇天後の7週の祭りの日に、今度はエルサレムにおいて、神が聖霊の授与により、イエスの弟子たちと契約をかわされ、メシアのからだである「教会」が誕生したのです。これが、シナイ山の契約が聖霊によって更新された、いわゆる新約にほかなりません。

このように、メシア到来のスケジュールは、イスラエルの祭りにあらかじめ「型」として示されていました。そればかりでなく、イエスが栄光のメシアとして2度目に来られる時、すなわち「再臨」についても、予型が与えられています。それは、秋の例祭である、「ラッパの祭り」、「大贖罪日」及び、「仮庵の祭り」です。メシアの再臨の時は、神のラッパがなると言われています。また、それに続いて、イスラエル全体の罪が完全に贖われ、イスラエルが救われる時が来ます。そして、最終的な収穫と、いのちの水のお祝いである「仮庵の祭り」によって象徴される、メシアの国が実現します。

これらのことは、まだこれから起こることであり、それがいつであるかは、だれにも知らされていませんが、それが確実に起こること、そして、それがどのようなものであるかは、すでに「予型」として示されているのです。

これら主の例祭の他にも、イスラエルには、光の祭り(ハヌカー)やプリムの祭りなどがありますが、それらも、メシアと無関係でないことは、実に驚くばかりです。

 

このように、メシアに関することがらは、さまざまなかたちで、「タナハ」に示されているのです。ですから、メシアは、「生けるタナハ」とも呼べるでしょう。実際、ヨハネが、イエス(イェシュア)を、人となった神のことばと呼んでいるとおりです。

 


A−4:ケパをはじめ〜最後にパウロに現われたこと

 

復活したメシアは、40日の間、様々な人々に現われました。パウロはここで、そのうちの幾人かの名前をあげています。

しかし、これは、単に復活の目撃者を羅列したのではありません。福音書によると、復活のメシアに最初に出会ったのは、マグダラのマリアなどの女性たちでした。しかし、パウロはここでは女性の名前をあげていません。ある人々は、パウロが女性を軽視しているなどと悪口をいいますが、もちろん、そういう問題ではありません。

むしろ、ここでは使徒と呼ばれる福音の伝達者たちを紹介し、自分もその末席にすわっているということを強調しているのです。

その伝達者のリストは、まず、ペテロ、次に12弟子、続いて500人あまりのグループ、その後ヤコブ(イエスの弟)、そして残りの使徒たち、最後にパウロとなっています。

パウロは復活の目撃者のリストを、イエス(イェシュア)の1番弟子とも言えるケパ(ペテロ)ではじめます。

ペテロは、イエスに向かって、「あなたは生ける神の御子メシアです。」と告白をした時に、「私はその岩(ペテロもしくはペテロの信仰告白)の上に、私の教会を建てる。」とイエスから直々に言われた人物です。また、7週の祭りの時に聖霊が下り、新約の時代が始まった時も、彼は集まった人々に、弟子の代表者のようなかたちで、メッセージを語っています。

彼は、基本的にはユダヤ人に福音を伝える使命を受けましたが、同時に、コーネリアス一家というギリシャ人にも福音の門戸を開き、まさに、復活の証人の第1人者としてあげられるにふさわしい人物です。

しかし、福音はペテロ個人に委ねられたのではありません。イエス(イェシュア)の12弟子、すなわち内弟子は、グループとしても行動していました。ですから、復活したイエスが、このグループ全体に現われたのは当然のことなのです。

さらにイエス(イェシュア)は500人もの人たちに同時に現われたとあります。具体的にだれであるかははっきりしませんが、イエスが地上におられた時に、彼に従っていた大勢の人たちであろうと思われます。すなわち、イエスの地上の働きと、復活の証人は、内弟子にとどまらず多数いるのであって、パウロがこの手紙を書いた時点、すなわち復活から25年近くたった時点でも、多くの目撃証言者が生存しているということを強調しているのです。

「みおしえはエルサレムから出る。」と書いてあるとおりです。

その後、イエスは、彼の弟ヤコブに現われました。これは特筆すべきことです。なぜなら、イエスの弟たちは、イエスが地上の働きをしている時には彼を信じなかったからです。それでもイエスはヤコブに現われました。このヤコブは、結局エルサレムの教会の指導者となり使徒たちの会議においても、議長のような役目を果たすまでになりました。エルサレムは永遠に全信徒にとっての中心地であることを忘れてはなりません。しかし、それは彼がイエスの肉親だからではなく、あくまでも復活の目撃者だからであるというのがパウロの主張です。

そして、すべての使徒たちに現われたとあります。逆に言えば、復活のメシアが現われたということが使徒であることの条件の一つなのです。使徒たちは、いろいろなところで、信徒の共同体、いわゆる教会を設立していきました。復活の直接の目撃者によって設立された教会は、復活の出来事を代々伝えて行くことになるのです。

そして、使徒のリストの最後に、パウロは自分の名前をあげます。時期的に最後ということもあるでしょうが、末席ということで、ふさわしくない自分が選ばれた事実を謙虚に表明しています。彼は、以前イエスの弟子たちを迫害していた者でした。それが今使徒とされているのはいかに驚くべきことでしょう。まさに、神の恵みの大きさというほかはありません。

そのようなパウロでしたが、彼は実にたくさんの迫害を受けることになりました。

まず、彼はペテロたちとは違い、イエス(イェシュア)の地上にいたときに弟子ではなかったということが問題でした。ヤコブも同様であったとは言え、彼はイエスの身内ではありましたが、パウロは何の関係もありませんでした。そのようなパウロにとって、彼が復活のメシアの直接の証人であるということは、彼の使徒としての資格を保証する、最も重要な事実だったのです。

また、彼は以前イエスの弟子たちを迫害していたことも問題でした。彼の回心は本当だろうかといぶかる声もあったに違いありません。これに対しても、復活したメシアご自身が彼を使徒として任命されたという事実に訴えるしかありませんでした。

さらに同胞のユダヤ人からは、彼がユダヤ人にあるまじき行為をしている、すなわち、ユダヤ人にモーセの律法(トーラー)を破るように教えているという非難をあびました。これはとんでもない誤解、あるいは中傷であって、パウロは、イエス(イェシュア)の弟子になる前も、また後でも、トーラーの実践においては、なんら落ち度がないと自信を持って言えるほどの、まことのユダヤ人だったのです。そして、彼は、モーセとは別の新興宗教を起こしているのではなく、ユダヤ人の王であり、復活したメシアであるイエス(イェシュア)を、メシアご自身の命令によって伝えているのだという事実を強調しなければなりませんでした。

このように、パウロは、復活の証人であるという事実によって、彼が使徒として、異邦人にユダヤ人のメシアであり全人類のメシアであるイエスを伝えることを証明しています。

 

以上で明らかなように、復活したメシアの目撃証人のリストによって、イエスの復活が歴史的事実であること、使徒たちに福音を伝える使命が与えられていること、特にパウロは異邦人のための使徒としてメシアご自身によって任命されていることが示されています。

このパウロをはじめとする使徒たちによって、福音がユダヤ人の間だけではなく、異邦人にも伝えられるようになり、ユダヤ人と異邦人両者からなる「メシアのからだ」としての共同体が形成されていくことになりました。そればかりでなく、彼らの残した手紙によって、今日まで、使徒たちの具体的な教えが伝えられています。

復活の事実とその伝達者である使徒のメッセージの上に私たちの信仰が成り立っているのです。