創世記第1章

天地創造と、救いへの展望

 

聖書の冒頭を飾る有名な天地創造の話です。全能の神が7日間(6日の創造と1日の休息)で天地創造の業を進めていく様が簡潔に語られています。

この天地創造については、現代物理学や生物学、特に宇宙論や進化論との関連で様々な議論がなされています。またユダヤ・キリスト教内部においても、「7日」の解釈について、24時間説から時代区分説、あるいは枠組み説、相対論説、預言創造説、さらには全くの象徴的神話説にいたるまで多種多様な解釈があります。

そのような中で、荒唐無稽なものは別として、聖書全体のメッセージに沿い、また真摯にメッセージを汲み取ろうとする解釈であるならば、あえて特定の解釈にこだわることはなく、それぞれの読み方を建設的批判精神をもちつつ、「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」(2テモテ3:16)という聖書自体が証言する目的を忘れずに読んでいくことが大事です。

また、イェシュア(イエス)をメシア(キリスト)として告白するものであるならば、聖書全体がメシアを指し示しているということも忘れてはなりません。以上の前提をふまえた上で、創世記を読んでいきましょう。

さて、聖書の示す道は、ひとことで言えば、「聖別」の道と言えるでしょう。ユダヤ人は自らの信仰を、「一切のものを聖とする」という天からの使命を実現する道として表現しています。まさに、唯一完全に聖である神が、「聖」とされた者を通して世界を聖としていく、そのプロセスが「聖別」なのです。

そして、その聖別の道は、まだ人類が罪を犯す以前、すでに天地創造のはじめから啓示されています。このように書くと、ある人は反論するかもしれません。「なぜ罪もないのに聖別が必要なのか」と。普通、まず罪の赦し(義認)があり、それから聖化が続き、最後に栄化されるという3ステップで考えるので、その意味では当然の反論です。しかし、聖書は何も「ある個人がどのようにクリスチャンになり、それからどのように成長するか」という視点からだけ書いてあるのではありません。むしろ、神の世界に対する壮大な計画が記されているのです。そして、「聖別」がその過程であり、それはすでに天地創造の「7日」に示されているのです。

また、よくある誤解についても触れておかなくてはなりません。それは、神が良しとされた当初の世界についてのイメージです。「良い」世界は「完全な楽園」であり、そこでは、人はいわば楽園の中で働くことも何もなく、ただ口を開けて、上から落ちてくるバナナなり何かを食べているだけという誤ったイメージのことです。この誤解によれば、そうした「楽園」から罪によって追放されて初めて人類は働かなければならなくなったというのです。
しかし聖書は、人を創造して直ちに「地を治めよ」と命じられました。すなわち人類は初めから使命をもって造られたのです。

ただし、この「地を治めよ」という表現もしばしば誤って受け取られています。すなわち、人は地上に君臨する存在であると思いあがって、「共生」よりも「支配」することを選んだために、今日の自然破壊という結果をもたらしたのだという俗説です。人が思いあがったのは事実ですが、それが聖書のメッセージだというのは誤りです。なぜなら、聖書において「支配する」というのは、イェシュアのことばにあるように、上から君臨するのではなく仕えることだからです。またユダヤの伝統の中でも、「人が最後に造られたのは、自分より先に造られた先客がいることを知り、謙虚になるためだ」と言われているとおりです。

そして何のために仕えるのかと言えば、もちろん、仕える相手を聖なるものとして神にささげること、すなわち聖別の道を歩むことに他なりません。使徒パウロも自身の使命について、「私は神の福音をもって、祭司の務めを果たしています。それは異邦人を、聖霊によって聖なるものとされた、神に受け入れられる供え物とするためです。」(ローマ15:16)と語っているとおりです。

こういうわけで、初めに創造された世界は、罪はありませんでしたが、人が働くべき対象として造られたのであり、ただ白昼夢を貪る場所だったのではありません。いわば、使命を果たすべき場所として「良い」ところだったのであり、「何もする必要が無いから良い」という怠け者のための良いところだったのはないのです。


ではこの「創造の7日」の内容を見ていきましょう

まず、神ご自身が聖であることが宣言されます。すなわち、「神」は創造者であり被造物とは完全に区別されるお方であると言われます。これは根本的なことで、異邦人世界の諸宗教との違いが明確にされています。しかし今はこの問題には深入りせず、続く世界の聖別のようすを見ていきましょう。

 

創造の業−前半

第1日に、闇から光が聖別されます。光は神、メシア、また神のことば、トーラーの象徴です。さらに光と闇は善と悪を象徴しています。もちろん、創造のこの段階で悪があったとか、悪の世界から善が現れてきたなどという意味ではありません。しかし、象徴として、神は善と悪とを峻別されるお方であるということ、すなわち倫理的なお方であるということが宣言されているのです。聖書の道をあえて宗教と呼ぶなら「倫理的一神教」と呼ぶことができる所以です。そして、「神のかたち」に創造された人も同様に悪ではなく善を選ぶ道を歩むように求められているのです。

第2日に、神は「上の水」と「下の水」を分け、その間に大空を造られました。下の水は海だと判りますが上の水はなんでしょうか。諸説がありますが、聖書では、空から降り注ぐ雨が神のことばの象徴として扱われています。(申命記11:8−14、32:2、イザヤ55:10−11など)
この聖別された上の水に対して、「下の水」すなわち海や大水は、しばしば諸国の民、しかもイスラエルに敵対する国々の象徴になっています。(詩篇65:7、イザヤ17:12,13など)
もちろん、天地創造のこの日には諸国は存在してはいませんが、予表として、また潜在的には神の民に逆らう諸国すなわち「この世」として海を見ることができるのです。
さらに、その上の「空」も、神の住むいと高き天とは別の、この世の天として、人の支配すべき領域として区別されています。

第3日に、神は諸国を表す海から、乾いた「地」を聖別されました。「地」はもちろんここでは陸地全般のことではありますが、象徴としては、諸国から区別された「かの地」、すなわち約束の地であるイスラエルを表しています。
そして、神はその地から草と果樹を生じさせました。これは象徴としては、草が単なる肉としての人、実を結ぶ果樹は、霊的に実を結ぶ人を表しています。

創造の業−後半

第4日には、第1日の光と闇に対応して、それを司るのもとして太陽と月、そして星が登場します。メシアは「義の太陽」(マラキ4:2)と呼ばれています。そのメシアの光を反映させ、世の光となるように召されているのがメシアの弟子たちです。ユダヤの暦では新月からサイクルが始まりますが、「新しく生まれ」成長する弟子たちの姿が表されているのです。
さらに、アブラハムの子孫について、無数の星のようになると呼ばれています。(創世記15:5)

第5日は、第2日の海と空を満たす生き物が造られた日です。海に造られた巨獣は、のちに神によって滅ぼされるべき神の民の敵として(詩篇74:13)、さらには悪魔的な存在として(黙示録13:1)登場します。
また空の鳥も、象徴的には「空中の権威を持つ支配者」(エペソ2:2)と呼ばれる悪魔的な霊を連想させます。
ここでも、人は光として被造物を支配し、闇を克服し、聖なるものとして神にささげる使命を帯びた存在として暗示されているのです。

第6日、乾いた地に野の獣、家畜、はうものが造られ、最後に人が神のかたちに創造されました。人が身近に治めるべき獣などの存在にまじって、のちにエバを惑わすことになる地をはうものもありました。実を結ばない植物と並んで、退けられるべき誘惑を象徴です。人はこれらのものに打ち勝ち、地を正しく治める使命が与えられているのです。まさに、聖なる神に形作られた人は、自身も聖別されたものとして神と共に支配するのです。

安息日

神は創造の業を完了し、第7日目には休まれ、これを聖なる日と宣言されました。安息日です。この安息日は何の象徴でしょうか。言うまでもなくイスラエルのしるしです。(出エジプト31:17)
ユダヤ人個人のしるしとしてのしるしである割礼と並んで、安息日はまさに神とイスラエルの民とを結ぶ永遠のしるしなのです。「ユダヤ民族が安息日を守ってきたのではなく、安息日がユダヤ民族を守ってきたのである。」と言われる所以です。
ここに「地」を所有すべきイスラエルの民が聖別されるべきことが象徴されているのです。


こうして創造の業は完結しました。制度としての安息日は基礎がつくられ、やがてイスラエルも誕生します。
しかし、実は究極的な「安息」はまだ完成していません。制度以上の真の安息が「神の民のためにまだ残っている」(ヘブル4:9)とある通りです。
そして、その真の安息にメシアの信仰をとおして入る道について記されているのが福音であり、聖書全体のメッセージに他なりません。この安息こそ、神の創造の真の完成であり、新しい創造です。

そしてこの新創造は天地創造の本来の意図を実現します。すなわち人は肉(実を結ばない生まれつきの性質)を克服し、悪の諸力を打ち破り、あらゆる被造物を聖なるものとして神にささげるのです。

さらに、この新創造にあずかるのはイスラエルだけではありません。なぜなら、神が一部を他から区別し聖別されるのは、その聖別されたものを用いてあらゆるものを最終的に聖とするためだからです。
すなわち、イスラエルは彼ら自身が証しているとおり、すべてのものを聖とするための神の僕なのです。
残念なことに、この僕としてのイスラエルはしばしばつまずきました。そして、約2000年前の指導者たちは、「神のかたち」である聖なるメシアを異邦人に引渡すという最大の過ちを犯してしまいました。

しかし、神の人知を超えた知恵により、この死に引き渡されたメシアの苦しみによってかえってイスラエルの罪は赦され、さらに、完全な神の僕イスラエルを体現したメシアは、復活後天にのぼり全能者の右に着座されました。すなわち、ユダヤ人のみならず全人類の創造者である神から権威を受けた者であると宣言されたのです。

このメシアは、人を真に聖別する聖霊を、ユダヤ人だけでなく異邦人にも、メシアの名を呼ぶすべての者に与えてくださいます。ここに「地」から実を結ぶもの、すなわちイスラエルの残りの者と呼ばれる人たち、そして、「海」すなわち異邦人諸国から聖別された人たちが、「新しいひとりの人」、「キリストのからだ」として建てあげられていくこととなります。この新しく造られる民こそ、まさしく真の安息に入るもの、神の創造の完成となるべきものなのです。