神の国とビジネス(原題:御国のビジネス)

ビジネスに携わる人々のための、ビジネスと宣教の関わりついての指針

 *以下は、ピーター塚平師による同名の著作を野村が訳したもの(抜粋)です。

目次

A.序章

B.カイザルのものはカイザルへ、神のものは神へ

C.御国のビジネス

D.狭い道

E.宣教の使命を帯びたビジネス

F.実際的なアドバイス

  1.  
  2. 誠実な心
  3.  
  4. 目標を目指す
  5.  
  6. 勝ち抜く意志
  7.  
  8. ビジネスを通じての人間関係
  9.  
  10. 祈りの重要性

 

A.序章

ビジネスマン(女性も含む:以下同じ)が世界宣教に貢献できるようにとの願いから、このパンフレットを書きました。

多くの場合、牧師や宣教師などの、いわゆる専門家だけが宣教に関わっているように思われています。その結果、それらの専門家と一般の信徒との間に、文化の壁が存在してしまいます。

ビジネスマンの信徒は、宣教に対して経済的に多大の貢献をしていますが、霊的な潜在能力が埋もれてしまっています。

マタイ福音書の最後にある大宣教命令をひとりひとりが真剣に受け止めなくてはなりません。ビジネスに召された人も、同時に宣教にも召されているのです。

ビジネスと宣教はそれぞれが独自のものであって、一方があれば他方はいらないというようなものではありません。そのあたりの兼ね合いを探るのがこのパンフレットの目的です。

 

B.カイザルのものはカイザルに、神のものは神に

アメリカを始め今日の国々はビジネス(すなわち経済活動)を中心に動いています。
では、私たち天の王国に召された者はどうでしょうか?
 
私たちとビジネス界はどう関わるのでしょうか?
主はビジネスをされるでしょうか? 
されるとしたら、天の王国のビジネスとはどのようなものでしょうか?

タナハ(いわゆる旧約聖書)では、商業活動を肯定的にとらえています。アブラムはとても豊かでした(創世記13:2)。ソロモン王も神から与えられた知恵によってイスラエルの経済を発展させ、エルサレム神殿を建設しました。箴言10:22には、「主の祝福そのものが人を富ませ、人の苦労は何もそれに加えない。」とあります。

とはいえ、経済活動は神の道徳的な基準にそって行われなければなりません。預言者アモスは不当な税や賄賂を厳しく非難しています(アモス5:11―12)。もちろん、非難すべきは富そのものではなく、不当なやりかたで富を得ることです。

新約でももちろん商業活動そのものは肯定しています。しかも富についてもっと深い理解を与えてくれます。本当の富は天にあり、地上の富とどちらをとるか選ばなければならないというのです。イエスは12歳の時こう言いました。「わたしが必ず自分の父の家にいることを、(家業に携わらなければならないのを)ご存じなかったのですか。」

もちろん、家業とは天の父の働きのことです。

その後イエスは両親とナザレに戻り、おそらく父ヨセフのもとで大工として18年ほど過ごされました。大工イエスはいろいろなものを制作し、周りの人々はそれを買ったことでしょう。イエスが不良品を売ったり、帳簿をごまかしたりしたなどありえないことです。きちんと税金も払い、良いビジネスを営む大工として、また正しい人として周囲から尊敬されていたに違いありません。

イエスは御自身がこのような日常生活を経験されたので、周囲の人々をよく理解できました。彼のたとえ話は日常的なものばかりなのもそのおかげでしょう。

一方で、大工時代のイエスの宣教については何も記録されていません。大工時代はあくまで宣教活動の準備だったと言えるでしょう。イエスにおいては、天のビジネスと地上のビジネスははっきりと区別されていました。ルカ16章で、イエスは弟子たちに、地上のビジネスで忠実なら、神は天の王国のビジネスを任せると言っています。(ルカ16:10―11参照)

地上の富と天の富との関係がこのように言われている一方、この二つを混同しないようにはっきりと示されています。(ヨハネ2:14―16参照)

多くの立派なクリスチャンがビジネスと宣教は一緒だと言っています。しかし私は、ビジネスはビジネス、宣教は宣教であって二つは別物だと信じています。クリスチャンがビジネスをすること自体はなんら問題はありませんが、二つをしっかり区別することが、それぞれの分野で成功するために不可欠です。ビジネスをしっかりしつつ同僚や上司、部下のために祈りつつ、自由時間に心から証をすることが大事なことです。

バプテスマのヨハネは悔い改めときよめを説きましたが、地上の仕事をやめよとはいいませんでした。たとえそれが税の取りたてやローマ軍の兵隊であってもです。(ルカ3:12―14参照)

イエスは有名な山上の垂訓で人々の前で光を放つように言っています。(マタイ5:16)

私たちが職場で良い働きをするのを人々が見るとき、彼らは私たちの証に耳を傾け、地上のものよりずっとすばらしい天の富を知るようになるのです。

イエスは天のビジネスと地上のビジネスを混同されませんでした。私たちが救われたのは、イエスがやがて天のビジネスに専念されるようになったからです。(マタイ4:23参照)

だれでもイエスの死と復活につながり、新しく生まれたならば、聖霊によってイエスの姿に似せられていきます。もちろん、信仰の量りに応じてさまざまな御霊の賜物を受けますが、結局のところ私たちはそれぞれの形でイエスの働きに召されているのです。

イエスの働きの中には、祈り、教え、説教、預言、人を訪問すること、癒し、餓えた人や困っている人を助けること、死者を生き返らせること、そして自身を犠牲として捧げることが含まれています。クリスチャンの本当の働きもこれらの要素からなっているはずです。

ある人々は、他からの援助によって生活し、宣教の働きを専業にします。しかし大半の人は、一般社会の中で生計を立てています。それは、将来専業の宣教生活をするための準備であったり、あるいは、いわゆる一般信徒として宣教に関わる形であったりします。

使徒パウロも時に天幕作りという職をもちながら、宣教活動を進めました。もちろん、天幕作りの仕事を終えたあと、安息日に説教したのです。

パウロの手紙の中には、彼の世俗の職業(天幕作り)を連想させる例話があります。

(第2コリント5:1―4参照)

天幕作りそのものは彼の宣教の働きではありませんでしたが、宣教活動を支える手段でした。同様に私たちも自分の職場の製品にトラクトを忍び込ませなければいけないなどと考える必要はありません。むしろ、職場においてはその業務に専念し、良心的な仕事をし、よりすぐれた成果を目指すべきです。そして、自由時間に福音をただで伝えなければなりません。

福音に商業的な混ぜものをしてはいけません。福音宣教によって金もうけをしようとか、有名になろうとか、自分の野望をとげようなどというのは許されることではないのです。

イエスの福音は天からのきよいものであり、ビジネス界の空気で汚染してはなりません。

(第1テサロニケ2:9、第2テサロニケ3:8参照)

ビジネスの目的は、製品やサービスなどによって社会に価値を与えることです。しかも、それを継続し発展させるためには利潤を生みださなければなりません。お金を儲けるということがなければビジネスは成り立たないのです。

クリスチャンがお金を儲けること自体には問題はありません。詩編24:1に、「地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは主のものである。」とあるとおり、地上の富は本来すべて神のものであって、人はそれをいただくのです。

専業の牧師や宣教師のように献金によって生活をしている者でさえ、そもそも献金は信徒が通常の経済活動を通して得たものによって成り立っていることを覚えるべきです。

ですからビジネス界で働く以上、成功を目指してがんばるべきです。

しかし、だからといって利潤追求を目的とするこの世のビジネスと神の国のビジネスを同じ物と考えてはいけません。この世のビジネスで成功するのは神の祝福ではありますが、より大きな永遠の祝福は、神の国のビジネスとして、福音を無償で分け与えることです。

では、この世のビジネスと神の国のビジネスを同時にできないのかというと、そうではありません。ただ、この二つはまったく異質のものであることを忘れてはなりません。

イエスは、神と富に兼ね使えることはできないといわれました。私たちの主は神おひとりであって、その神がこの世のビジネスと神の国のビジネスにひとりひとりを導くのです。

神がこの世のビジネスで祝福してくださるとしたら、それは神の国のビジネスにより大きく貢献するようになるためです。

実際問題として、必要十分な収入があり、また職場において良い評判を得ているなら、休暇を得て伝道旅行をしたり、聖書勉強のコースを取ったり、あるいは休暇を取らなくても病院を訪問したり、自宅で集会を始めたりできます。実業家であるなら、海外宣教に役立つような事業を始めることもできます。実用的な技術(たとえばコンピュータプログラムなど)があるなら、専業の宣教師が入国できない国で働くことも考えられます。サラリーマンであっても、自由時間を使って同僚に証をすることもできます。

 

C.御国のビジネス

この世のビジネスが利潤を得ることだとすれば、御国のビジネスは、イエスの弟子を育てることです。(マタイ28:18―20参照)

イエスの働きは、もちろん救いと神の国をもたらすことですが、そのために具体的には少数の弟子を育てられました。神のゴールは人作りなのです。

神の栄光は弟子たちが実を結ぶことによって現されます。この世のビジネスで、たとえ美しいオフィスや最新の設備を持っていても商品を生み出さなければなんの価値もないのと同様、神の国のビジネスでは弟子を生み出さなければ意味がありません。

一般にヨハネ17章のイエスの祈りは、大祭司の祈りと呼ばれていますが、私はむしろ、イエスから御父への最終業務報告と呼びたいと思います。十字架に向かう直前のこの祈りで、イエスはこう言っています。「あなたがわたしに行なわせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現わしました。」

イエスはこの段階で何を成し遂げたのでしょう? 救いは十字架にかかることによるのですからまだです。むしろ、人生がつくり変えられてきた弟子たちこそイエスの成果です。

イエスのこの祈りの大半は弟子たちについての祈りであることに注意しましょう。

(ヨハネ17:6―8参照)

群集についてや癒しや5000人を食べさせた奇跡や、ましてや財政の問題についてではなく、御自身の弟子をはじめ、その後に続くべき私たちのためにも祈っておられるのです。

(ヨハネ17:20―21参照)

キリストのからだにあって、私たち一人ひとりは決してばらばらなのではありません。

ある人は他の人の宣教を助けるためにビジネスの分野で働きます。ある人は事業を起こし、他のクリスチャンのための職場を提供します。またある人は、天幕づくり伝道、すなわちビジネスをしながらの宣教にたずさわり、教会のサポートが不十分な状況でも宣教を進めていきます。クリスチャン企業の献金は多くの働きを助けます。このように、ひとりの働きは他の人を助けるようにできているのです。これが、神の国のビジネスにおける法則と言って良いでしょう。

 

D.狭い道

正しいビジネスの道は狭く、その両側にはお金に関する誤解からくる罠が待っています。

ひとつは、ビジネスとして失敗し、その言い訳として「宣教のため」だからと妥協してしまう罠。もうひとつは、ビジネスの成功のために、聖書の原則や、自分の霊的成長を犠牲にしてしまう罠です。いずれの場合も、しばしば貪欲が原因となっています。貪欲を積極的に処理していくならば、詩編1章にあるとおり、不義の道から離れ、結果的に主の祝福が留まります。貪欲によってバブルに躍らされたり、人を踏み付けたりせず、忠実で忍耐のある仕事によって成功するのです。

ビジネスとして成功するためにも、また、良い証をたてるためにも、貪欲は取り除かれなければなりません。これは、キリストの十字架の力によって、古い肉の欲を殺し、新しい性質を成長させていくことによってのみ可能です。自己中心的な理由でビジネスの成功を求めることが貪欲であり、自分の十字架とはこの貪欲に死ぬことに他なりません。

神を信じない人の場合、収入のいくらかを「カイザル」に税金として収め、残りは全部自分のものにします。しかし私たちにとっては、税を納めたあと、残りは全部神のものです。

私たちは所有者ではなく管理者であり、僕としてその中から個人的に必要なものをいただき、また、神のビジネスのために用いていくのです。

もし神が愛でなければ、神の僕であることは、恐るべき奴隷生活を意味するでしょう。

しかし事実は逆で、僕としての狭い道は、ビジネスの成功と個人的な満足へと導きます。

多くの神を恐れぬこの世のビジネスマンは、「全世界を手に入れても、自分のいのちを失ってしまう」のです。彼らは、貪欲にかき集めたものを、審判の日にはすべて神に明け渡さなければなりません。しかし、そうしても自分のいのちを買い戻すことはできません。

私たちの道は狭い道です。ですから、私たちにとってビジネスは単なる職業ではなく、神の計画の一部でなければなりません。ビジネスに召されているのなら、絶えず戦いはあっても、神の導きと守りをいただくことができます。そして、自分の召しについて、時々確認する必要があります(いつもいつもではなく、一定期間をおいて)。ひとつの例として、イエスは、18年間立派に大工としてのビジネスをやり遂げた後、宣教に専念し、二度と大工には戻りませんでした。

イエスの十字架の力によって私たちの良心がきよめられるならば、汚いマモンの世界で、なお良心的に富の創造に関わることができます。(テトス1:15)

十字架で流された血潮の力によってのみ、才能や能力が清められ、狭い道を歩くことができるようになるのです。

 

E.宣教の使命を帯びたビジネス

現代の世界宣教にとって、ビジネスマンの役割はますます大きくなっています。伝統的な海外宣教、すなわち、西洋からの専門の宣教師が宣教師ビザで働くということがほとんど不可能になりつつあるだけでなく、非西洋諸国の教会が宣教師を送り出すときに、その宣教師を財政的に支援することが難しいという現状があります。そのような中で、ビジネスで海外に行き宣教するという形がとても重要になってきています。

特に、福音がほとんど届いていない地域や国では、このような形の宣教が必要です。それは、ただ単に経済的な理由ばかりではなく、ビジネスによって、その地域に深く根を下ろすという意味を持っています。よそ者が来てただ説教するのではなく、生活に溶け込むのです。

イエスは18年の大工生活で、周りの人々に近づきました。使徒パウロも、天幕作りという職業によって、地域と関わりました。彼は、教会からの援助で生活をする権利があるにもかかわらず、あえてその権利を行使しないで、自分自身で稼ぎ、教会の重荷にならないようにしたと言っています。

華僑のような国際的なビジネスネットワークも、宣教の組織的な推進のために、情報交換などの分野で役立つことができます。また、いわゆる福音に閉ざされた国々では、専業の宣教師が入国すること自体が不可能なので、ビジネスによってまずその地域に根をおろして宣教するしか方法がありません。いずれにしても、ビジネスマンによる宣教が、今日の最重要課題のひとつであると言っても過言ではないでしょう。

 

F.実際的なアドバイス

  1.  
  2. 誠実なこころ
  3. (箴言28:6参照)

    クリスチャンは真実な人でなければなりません。愛を持って真実を語ることによって失敗するのではないかと恐れる必要はないのです。確かに、いつ、どのようなかたちで真実を語るかについては知恵が必要ですが、神は私たちの心をご存知ですから、足りないところを助けてくださいます。

    もちろん、誠実さとは、ただ正直に物を言うということだけではありません。正しいことを正しいやりかたでするということです。また、神との約束も、また人との約束も守るということです。仕事の契約を守ることはもちろん、会社なら、きちんと採算の取れる経営をすることまで含まれます。

    誠実さを保つためには、祈りによって神の前に立つ習慣がなければなりません。そこで内側がきよめられてから、外の世界に出て行くのです。祈りとみことばによって知恵を受け、ビジネスの難しい決断や、複雑な人間関係の中を、道徳的に妥協することなく通過していくことができるのです。

  4. 目標を目指す

ダビデは大人物でしたが、その秘訣は神を求めるということをひたすら目指していたことです。

(詩編27:4参照)

大宣教師パウロもひとつの目標を持って生きていました。(ピリピ3:13―14参照)

ふたりとも、神の目から見た最善のものをもとめ、ひたすらその目標に向かって歩んでいたのです。

たいていの人は、一度にひとつのことしか成し遂げられませんから、正しい目標に焦点をしぼって、すべてもてるものを投入しなければなりません。

では、焦点をしぼるとは、具体的にどのようなことでしょうか。

  1.  
  2. 召しのなかで、現実的で明確な目標を設定すること
  3. 私たちのゴールは地上に富を築くことではありません。できるだけ神の国のビジネスにエネルギーを投入できるよう努力すべきです。(マタイ6:19―20参照)
  4. 神からの賜物を見出し、得意な分野に専念すること
  5. ふさわしくないものには、ノーと言えるようにしましょう。
  6. 同じ事の繰り返しでも、簡単にやめないこと
  • (イサクは父アブラハムの井戸を掘り返しました。)
  • このように、目標をしぼることが重要ですが、だからと言って、柔軟性のないのも良くありません。

    目的がはっきりしていれば、手段については柔軟に修正しつつ対応していくことが大切です。

    祈りとみことばによって、神からの目標をいただき、信仰をもって、その目標に近づいていくのです。

    (ヤコブ1:6―8)

    1.  
    2. 勝ち抜く意志
    3. まじめに物事に取り組むなら、成功を目指さなければなりません。パウロは信仰生活をレースにたとえました。(ヘブル12:1)

      私たちは競争し戦っています。もちろん、他のひとに対してではなく、罪と悪とに対してです。

      (エペソ6:12参照)

      イエスもタレントを活かして働くことについて語っておられます。(マタイ25:24―29参照)

      もしビジネス界に召されたのなら、経済界で競争するように召されたのです。当然ルールを守って公正に、忍耐強く戦わなければなりません。信仰を持って良い働きをし、良い僕と呼ばれるようになるべきなのです。

      ビジネスはゲームのようなものです。ですから本質的に競争原理に立っています。そのような中で証をしていくためには、良い仕事をしなければなりません。不正な手段は用いず、競争に勝つことを目標にするのが当然のことです。自分だけでなく、同僚の勝利にも貢献するならば、彼らの信頼を得て、

      私たちの話にも耳を傾けてくれることでしょう。

    4. ビジネスを通しての人間関係
    5. ビジネスは人生の不可欠の分野であって、さまざまな人間関係を通して展開していきます。

      すぐ目先のことだけでなく、長期的な展望を持って人脈を築いていくものです。

      以前私がセールスマネージャーとして働いていた時、ひとりも知り合いのいない国に行きました。

      ホテルで祈っていたところ、大使館に電話すべきと感じたので、そうしたところ、あるひとりの人を紹介されました。彼は従業員25人程の小さな会社を経営していましたが、非常に有能な人物に思えたので、私の代理人になってもらいました。次に彼に会った時には従業員の数は200人ほどに増え、

      さらに2000人まで成長しました。その後ニュースで聞いたところによると、彼自身には何の政治的経験がないのにも関わらず、総理大臣から内閣に入るように求められたとのことです。彼の会社は、今日ではその分野で世界有数なものにまでなっています。

      神はふさわしい人々と出会うように導いてくださるのです。

      ある人から、友人に対して商売をすることの是非について聞かれました。私自身の経験から言えば、

      良いビジネスから良い友人が生まれることはあっても、その逆はめったにありません。むしろ、商売によって友人関係をこわしてしまうことのほうが多いと思います。

      ビジネスに必要なのは友情ではなく、合法的に、また倫理的に許される方法で顧客にサービスを提供することなのですから。

      クリスチャンとそうでない人がビジネスのパートナーとなることはどうでしょうか。

      いろいろなかたちのパートナーがあるでしょうが、まったく対等なパートナーシップはうまく行かないと思います。聖書にも、つりあわぬくびきを負ってはならないとあります。

      神は人間が地上を治めるようにされました。人の罪によってはなはだ歪んではしまいましたが、人間が地上にある資産に対して責任があることには違いありません。人はまず人を創造された神に対して責任があり、これがもっとも決定的なことですが、そこからはじまって、正しい人間関係を築いていかなければなりません。そして、ビジネスも良い人間関係なしには成り立たないのです。

    6. 祈りの重要性

    クリスチャンにとってビジネスは単なる職業ではなく神の召しですから、祈りによって神の導きを得なければなりません。ビジネスにおいて神が共にいてくださるのなら、ひとりきりで難しい課題に取り組むのではありません。

    ビジネスにおいては、道徳的に白黒はっきりしない灰色の分野に遭遇します。そんな時に妥協してしまいやすいのですが、祈りによって打ち勝つ力と知恵をいただかなければなりません。

    エジプトでのヨセフやバビロンでのダニエルは、よい模範となるでしょう。自分の意志を押し通す人ではなく、祈りによって神の意志を押し通す人になりましょう。そして、このことこそ、クリスチャンビジネスマンにとって不可欠なことだと信じます。