1.序
旧・新約聖書全体から見れば、神の人類に対する目的が、「教会の成長と完成」であることがわかる。もちろん、ここでの「教会」とは、キリスト教を標榜する宗教団体組織のことではなく、「キリストのからだ」や「キリストの花嫁」という象徴で表されている神秘的生命共同体のことである。
「キリストのからだ」なる共同体は、「個人」からなる共同体である。「個人」というのは、それぞれが固有の特性、使命、責任を持っている、他と交換できない存在のことであって、パウロ風に言えば、からだのそれぞれの部分ということになる。
「目は目であって、耳がそれにかわることができない」ということが個人の個人たる所以であって、各部分がそのような「個」であるからこそ、「からだ」全体が有機的なものとして存在することができる。「からだ」にあっては、「個」が「全体」に吸収されることはないし、逆に「全体」が「個」に還元されることもない。あくまで、「個」あっての「全体」であり、「全体」あっての「個」である。
このような「個人」というものは、ことばでは簡単だが、実際はまれにしか見ることのできない存在である。そもそも、そのように有機的に「全体」と係わっている個人以前に、個人としてのいわゆる近代的自我なるものでさえ、まさに近代という修飾語が付いているとおり、普遍的というよりは時代的文化的制約を受けた、かなり特殊な存在だと言える。
そして、その近代的自我を基盤とした現代の西洋文明がさまざまな問題を露呈していると同時に、他の文明圏では、それに反発する形で、近代的自我自体を抑圧した、集合的、全体主義的あり方が力を強めつつあるのが現代である。
その中で、表層においては西洋文化の仕組みを取り入れつつ、深層においては、それに反発する集合的心情の強い日本において、近代的自我と伝統的集合意識との対立に引き裂かれるのではなく、それらを乗り越えた「個人・からだ」という有機的共同体を目指すことは、緊急かつ死活的問題であるといわなければならない。そして、まさにそれこそが聖書全体のメッセージなのである。
この観点から創世記の「族長物語」と呼ばれる個所を読むとき、まさに、「キリストのからだ」なる約束の地を目指した、アブラハムを筆頭に多くの人々によって辿られることになる、人類の長い旅路の始まりを見ることができる。
2.アブラハム以前
アブラハムとともにイスラエルの「創造」が始まるが、創世記は彼以前の「天地創造」の物語が記されている。
その根本は、「唯一の神」による「ひとりの人」の創造であり、ユダヤにおいて常に「ひとり」が重視される所以となっている。「ひとり」と「ひとり」の関係が土台となった世界、それが聖書の世界観と言えるであろう。
しかしその世界も「ひと」の堕落と楽園追放によって変わってしまう。ノアの洪水やその他見るべきものは多いが、今は省略するとして、アブラハムが登場する時点では、聖書の舞台は典型的な「古代」の様相を呈している。すなわち、神々、諸霊力、魔術、生贄といったものが活動する、心理学的にいえば、集合的無意識の諸形態が支配的であり、いまだ独立した自我を持つ「個人」が活動する余地のほとんどない状態であった。
アブラハムの出生地、カルデアのウルは、都市ではあったが、そのような古代の場であって、伝説によれば、アブラハムの父も、そこで神々の偶像を作る職人であったという。しかし、ある日アブラハムに神の声が響くことによって旅は始まるのである。
続く