場所的論理と聖書 その7

「光は闇において輝いている(現在形)。闇は光を手中にしなかった(点過去)。」

光、すなわち根源的ないのちの開けは、闇という場において今輝き続けています。光がロゴスであり絶対、全てであるならば、なぜわざわざ「闇において」輝かなければならないのでしょうか。光と闇の二元論的な世界ではなく、といって単に光の欠如を闇と呼んでいるのでもなく、非本来的な形で現れている「神の絶対意志」の逆限定を闇と呼んでいるのですから、これは、根源的な働きが、自己限定において非本来的な事態に直面しつつ、なおそれが一層根源的な働きを表わしている事態と呼んでいいでしょう。
それは変だというのは当然の感情かもしれませんが、パウロも「罪が増し加わるところに、恵みも増し加わる」と言っています。もちろん、それは闇を正当化するものではありません。闇はどこまでも神の意志に逆らうことであり、弁解の余地は一切ありません。しかし、聖書は単に倫理道徳を説いているのではなく、倫理道徳が成立する根源について語っているのです。そこでは、神の意志に背くということと、神の意志の中にあるという、絶対に矛盾することが同じ場所にあリます。西田の「絶対矛盾的自己同一」の世界に通じるのかもしれません。

矛盾的自己同一というのは、光も闇ももとはひとつであり同じものだという事ではありません。あるいは、同じものの両面が光と闇だというのでもないのです。一見、相反するものが実は同じだという事ではなく、あくまで両者は絶対に矛盾するのです。西田が、「過程的弁証法」に対して「絶対弁証法」と呼ぶ所以です。光と闇は妥協の余地がないまでに正反対であり続けます。だから絶対矛盾的自己同一なのです。
神と人は絶対に異なります。義と罪は絶対に矛盾します。にもかかわらず両者が同一というのは、相容れないものが同じ場所にあるという場所的論理による考え方です。

「光は、光において光自身である」ことが「光は、非光において光自身である」というのは、光と闇という絶対に矛盾するものが同じ場所にあるという事態が決して付随的なことではなく、光そのものにとって本質的なことであることを表わしています。すなわち、神の絶対的な恩恵は神の本質であるということです。しかもその本質的な事態が、光が即自的に光である事態と、自己矛盾的に光であるという両方の事態もまた絶対に矛盾した事態であるという、いわば二重に矛盾した出来事です。言い換えると、このような絶対に矛盾した世界とは、「当たり前」のことではなく、北森氏も言うように神の「痛み」である十字架によって示されている世界なのです。

つづく