場所的論理と聖書 その6
ロゴスの働きにおいて神の創造を見てきました。
続いて、そのロゴスにおいて「いのち」が見られます。
「ロゴスにおいていのちがあった(未完了)。そのいのちは人々(人類)の光であった(未完了)」とあります。
いのちと光という、この福音書のキーワードがここに登場します。
ロゴスにおける創造とは「非連続の連続」である絶対意志の働きであり、そこで「つくられたものからつくるものへ」として歴史的世界が形成されていきます。その世界とは、無機的、機械的な世界ではなく、「いのち」の現れる世界です。
唯物論では、世界はまず機械的なものであり、意志やいのちといったものは、単にその機械的作用の結果である現象にすぎません。言い換えれば、「いのち」とは副次的なものです。
しかし、聖書によれば、それは本末転倒であり、ロゴスによる表現的世界である被造物にとって「いのち」は本質的なものです。所謂「生物」の機能として現れているものは、むしろその根源的な「いのち」の限定されたものに過ぎません。この世界(地球環境というものに限らない)は、本質的にいのちの世界なのです。この事態はキリスト教外でも「大いなるいのち」というような呼ばれ方をしてきました。「いのちを大切に」というスローガンもここから捉えられなければなりません。もちろん、この福音書での「いのち」とはキリストのことです。
その「いのち」は人類の光です。「人を照らす光」と解説的に訳されたりしますが、そうすると何か人類という「もの」と光という「もの」が対象的に並べられて一方がもう一方を照らしているようなイメージを持ってしまうので、ここでは端的に「人類の光」としておきましょう。ロゴスの場において、本来人と光は一息に語られなければなりません。人類の光ですから文法的には所有格です。といっても、キリストが人類のもの(所有物)というのでもありません。キリストは「一息に」人類の光なのです。いのち即光であるのは当然ですが、本来光即人です。ただし光あっての人であることは言うまでもありません。
いのちと光と言えば、紀元後に広まった浄土教系仏教において「阿弥陀仏」すなわち無限のひかりでありいのちである仏が語られ、さらにそこから日本における「絶対他力」の信が生まれてきたことは、しばしば指摘されているようにとても興味深いところです。
いのちが光であるのは、いのちが所謂表現的世界の本質的な姿であり、それはアルケー(根源)おいてあるロゴス、すなわち「自己において自己が自己を映す」かたち、すなわち私たちにとって「自覚」と呼ばれるあり方であるからでしょう。ですから、自覚は、たまたま大脳が肥大化した動物(人間)が獲得した特殊な精神状態なのではなく、むしろもっとも根源的な事態、すなわちロゴスの働きそのものであると言えるでしょう。人の自覚とは、その歴史的限定なのです。この真の自覚とは言うまでもなく神の自覚であり、それは「わたしは『ある』というものである」「エゴ・エイミ」というお方のあり方に他なりません。その神の「すがた」にかたどってつくられた私たちは、その根源においてあるという本来のあり方、すなわち「キリストにある」あり方において初めて真の自覚をすることができるのです。パウロが「もはや私が生きているのではなく私の内なるキリストが生きているのです」と告白するとおりです。
つづく