場所的論理と聖書 その5

前回、ロゴスをとおしての万物の創造に神の絶対意志を見ました。アオリスト(点的過去)で表現された「なった」 という言葉に、カイロス(神の時機)、特別な「瞬間」を読むことができるからです。
一般的な「時間」と訳される「クロノス」を、水平的な連続と見るならば、特別な「時機」である「カイロス」は垂直的な瞬間・非連続と言えるでしょう。もしカイロスが歴史の最初の一回きりのものであるならば、もう私たちにとってカイロスは無縁のものです。しかし、「カイロス」はけして一度限りのものではなく、ひとつひとつのカイロスが唯一独自のものでありつつ、無数にあるということもできるでしょう。ですから、「創造」は一度限りのものでありつつ、無数の「生成」として永遠にあるとも言えるのです。西田風に言うと、真の時は「非連続の連続」であり、非連続の瞬間すなわち「永遠の今」の自己限定として時というものが考えられるということになるのでしょうか。

もちろん聖書本文に登場する「カイロス」は、例えばイエスの受難などの非常に限定された特別の時であり、西田哲学のような時間そのものの構造を説いているわけではなりでしょう。しかし、万物は神のロゴスによって成っている以上、それはひとつひとつ唯一無比のカイロスの非連続の連続としてあると考えることは可能でしょう。その様々なカイロスのなかには、神の意志が明らかにされる「神のカイロス」、すなわちイエスの言う「わたしの時」と呼ぶものと、神の意志に反している無数の瞬間、すなわち「あなたがたの時はいつも来ている」と呼ばれているものがあります。
ここで神の意志に反するものとは、もちろん人の意志のことで、いずれにしても「瞬間」とは意志の出来事です。ですから非連続の連続の世界とは意志の世界のことであり、そこからヨハネ福音書の「光と闇」という世界が現れることになります。

さらに注目されるのは、この「意志」の瞬間が「なる」という言葉で表現されている点です。「なる」といえば「過程」、時間の経過を思い浮かべるので、「瞬間」にすぐわない感じがします。しかし「瞬間」というのは、「非常に短い時間」という意味ではありません。瞬間は時間の一部ではなく、瞬間の自己限定として時間があるのです。ですから、「なる」というのも時間経過ということではなく、むしろその「質」に特徴を見るべきでしょう。日本では、自分で決めたことであっても、しばしば「することになりました」とまるで「自然に」そうなったかのように表現します。自ずとなる、親鸞が「自然法爾」と言ったそうですが、人の作為によらない出来事を尊ぶ精神を思い浮かべます。このあたりは、逆に西洋的な自己責任の世界からは、「無責任」と言われることもあります。「なったんじゃない。あなたがそうしたのだ」と。ここに「責任を伴う主体的行為を尊ぶ世界」と「自ずと展開していくできごとを尊ぶ世界」が対立してしまいます。しかし、これは本来対立するものではないと思います。

創世記では「神が作った」と、神の能動的・主体的な行為として描かれている事態が、ここでは「万物はなった」と、万物の視点から生成として捉えられている、これは勿論対立するものではなく、ひとつの事態を両面から表現しているのです。すなわち、神の絶対的な意志・主体的行為は、同時に私たちから見れば「人のはからいによらず自ずとなっていく」出来事であるといえます。この「自ずと展開し成長していく世界」を、主イェスは様々なたとえによって「神の国」として表現されました。それは人の手によらず30倍、100倍と成長してく世界。あるいは、倒れている旅人に遭遇した時、人種や宗教の違いなどといった「人の計らい」をはさまず、あるいは道徳的な「汝なすべし」に従って徳を積もうなどという動機も持たず、ただ単純に「かわいそうだから」という理由だけで自然に手を差し伸べる世界。すべては「自然」(天然という意味ではない)であり同時に神の絶対的な意志が働いている世界、それこそが天地創造の神の国に他なりません。

ここに伝統的な問題、すなわち神の主権と人の自由意志がいかに両立するのかという問題も見ることができます。神の意志が絶対なら人に自由はないではないか。逆もまたしかり。しかし、それは意志というものを対象的に見ているからではないでしょうか。神の意志と人の意志という、いわばベクトルが正反対のものが二つあって、それがぶつかっているように捉えるという見方です。しかし意志は方向性と力を持った「もの」として存在しているのではありません。もし「もの」ならば、絶対的な「もの」に逆らい、それを排除できるような「もの」はありえないでしょう。ある意味では意志というのはひとつしかありません。すなわちロゴスの働きの展開であるところの絶対意志です。しかし、その決して対象化できない働きを「意志」として対象化するとき、その意志の両面なるものが考えられます。すなわち、意志の限定として、つくるものとつくられるものとの関係が見られ、さらに、そのつくられたものがつくるものとして限定しかえす、その無限の展開が見られます。その限定しかえす所において、人の意志と呼べる事態が考えられるのです。知恵の木の実を食べたものの、いのちの木の実が食べられなくなってしまった存在とは、この逆限定を不可避的に行いながらも、それが神の意志の「逆」であることを認めない存在、すなわち自らを「神」とみなす裸の被造物のことです。しかし、それにもかかわらず神の意志は無碍であり、その本然の姿としては、限定即逆限定であって、我々から見れば、そこは、すべてが「自ずと」なる世界、豊かな神の国なのです。



つづく