場所的論理と聖書 その4


では3節に入ります。
いわゆる「天地創造」に相当する箇所といわれています。
直訳すると、「すべてのものは彼(ロゴス)をとおして成った(アオリスト・点的な過去の出来事)。彼を離れては、成っているもので一つとして成ったものはない。」
1節2節の「ある」という静的ともいえる動詞も、ヘブル語の「ハーヤー」(生成する)とのつながりを考えて、あえて動的に読んできましたが、ここからはより端的に「成る」という動詞がしばしば登場します。
創世記では、「神は天地を創造した」となっていますが、ここでは「すべてのものがロゴスをとおして成った」と形が変わっています。
ロゴスという神の表現的な働きは即創造的な働きであって、その働きという場のなかで万物が生成されたのいうことで、より場所的な表現となっています。なにか巨大な「神」と呼ばれる「もの」が模型を作るかのような感じで宇宙を組み立てたというイメージではなく、あくまで実態に沿った形で、すなわち、現に「ハーヤー(生成)の働きによって自己表現(啓示)される神」によって存在しているものが、その場所から告白している文として表現されています。

ただ問題は、この「成った」が天的な過去の事象として書かれている点です。「そんなのあたりまえではないか。創世記冒頭と同じく、はるか昔に起こった天地創造の出来事の描写なのだから」と言われそうです。
もちろんそのことに異存はありません。しかしもしそれを理神論的に捉えると、聖書の世界から離れてしまいます。ここで理神論的というのは、「宇宙が始まったのは神の業によるが、一旦できてしまえば、宇宙はそれ自身の法則によって自立的に存在している」という考えのことです。
純粋な理神論では、実質神の出番はなくなってしまいますが、もちろんキリスト教の場合は、「奇跡」として神は自立している宇宙にも「外から」介入できます。その介入の頻度がどれほどなのか、千年にいちどの奇跡のようなものなのか、それとも日々の細かい祈りにもひとつひとつ答えて(しかも通常の因果関係と異なる方向に)くださるのかという点については、教会や個人によって様々な考えがあるでしょう。
しかし、「神」と「世界」というふたつの「もの」が別々にあって、一方が他方に介入するというのは、いわゆる「対象論理」的な思考から生み出されたイメージに過ぎません。神が「外から」介入するというのは、私たちの意志や力を超えた所から神が働かれるという意味では正しいですが、もし世界が神と「別に」自存(自立的に存在)しているということを前提としているならば、それは聖書的な発想とは言えません。
聖書によれば、万物は神のことばによって現にささえられ、御子にあって今存在し、神の霊によって今日も新しく作られる(詩篇104)のであって、神から離れて自存しているのではありません。

ではこのふたつの事態、過去の一点としての創造と、現在も続いている創造の働きをどう結び合わせたらよいでしょうか。ここでも「天地創造」も対象的な「もの」として見ないようにしましょう。なぜなら、たとえ今から百数十億年遡って、ビッグバンのさなに前のインフレーション開始の一点を観察できたとしても、それで神の創造が見えるわけではないからです。観察されるものは、それがどれほど初期のものであってもすでにつくられたものです。ちょうど、「意識」をいくら観察し分析しても、対象としてとらえられるのは「意識された意識」であって「意識する意識」ではないように、観察される創造はどこまでも被造物であって創造者ではありません。
では、点的な表現をどうとらえたらよいでしょうか。点的というのは、「一度限り」という意味をもっています。もちろん通常の「一回」という数えられる回数のことではなく、「決定的な行動」と解釈できるのではないでしょうか。現在のことでも劇的・確定的にアオリストで言うこともあるようですし、「カイロス」という通常の時間とは区別された「時機」という大切な概念もあります。神の創造は神の創造以外ではありえない決定的な唯一無比の出来事だということです。

神における決定的な出来事というのは、言い換えれば「絶対的意志」ということになるでしょう(黙示録4:11参照)。つまり、ロゴスの働きという場で万物が成ったというところに、絶対的な神の意志を見るということです。「創造」は、つくられたものの方からいえば「成った」ことです。「今あるものはどうしてそうなのか? それはそう成ったからである。それはロゴスの働きによるのだ」ということです。この「創造」は、つくるものの方からいえば「意志した」ことです。神がそのように意志したからそうなのです。「すべてはみこころにゆえに」です。


つづく