場所的論理と聖書 その3

前回まで「はじめにことばがあった」の箇所についてあれこれ書きましたが、もう一度まとめると、
「アルケー(根源)においてロゴス(みことば)という根源の自己表現的自己限定の働きがある、いわば自己が自己において自己を映し表現していく」事態としてとらえることができるということでした。

それに続いて、「ことばは神と共にあった」とあります。
詳訳すると、「ロゴス(みことばという表現的働き)はテオス(定冠詞つきの神=み神)と共に/に向かって(pros)あった(未完了)」となります。
ちなみに、ものの本によると「pros という前置詞は「向かって」という方向を表わすが、その文の動詞が静的なもの(be動詞)なら、「共に」と解釈できる」ということらしいですが、今は「ある・あった」という動詞を単に静的な存在として読んでいないので、「向かって」と方向性をもった読み方をします。

ロゴスは「ことば」という通り表現的な働きですから、当然ロゴスが指標する先があるはずです。その先が「み神」であるわけです。
あらあらまた異端的な事を書いてと言われそうです。そもそもみ神が最初に存在しているのであって、まるで「ロゴス」が神を作ったかのような考えは言語道断だと。
しかし、それも所謂対象論理的に「ロゴス」と「み神」をそれぞれ考えるからおかしいのです。「ロゴス」も「み神」も、「アルケー」と「ロゴス」の場合と同様、対象化して静的に言えば同じものです。ふたつの「もの」があるわけではありません。西田風に言えば、おなじ事態を、働き=ノエシス方向で言えばロゴスであり、内容=ノエマ方向で言えば「み神」であるということででしょうか。
じゃあ、同じものを何故二通りで言うのか? それは、根源的働きは、なんらかの意味でノエマ的に表現されて初めて、私たちが具体的に語り、また語りかける存在としてとらえることができるからです。絶対にものでない存在を「神」という、まるでものであるかのような存在として語り、またそのお方に向かって語る=祈ることができるのも、それがそもそも根源的ロゴスの働きであるからです。このあたりの事情を、伝統的神学で「啓示」と呼ぶのでしょう。

(ちなみに、この句の伝統的な読み方のひとつに、ロゴスをキリスト、み神を父なる神と読んで、「み子(キリスト)はみ父の方を向いていた」というのもあります。)

もちろん、福音書記者は続けて、「ことばは神であった」と記し、ロゴスとみ神が別の「もの」でないと念をおしています。
この文の「神」には定冠詞がないことから様々な議論がなされてきました。伝統的には定冠詞の有無は実質的に関係ない、すなわちキリストはみ神であるとと解釈されたり、「神」を「神的」と属性にとって、キリストの神性を述べているだといわれています。中には、エホバの証人のように、「神」を「み神」とは別の、一段劣った存在であると、反三位一体論を展開する人たちもいますが、さすがにそれは無理でしょう。
むしろ定冠詞がないのは、ロゴスとテオスを対象的に並置して、まるでふたつの絶対者がいるかのような印象を与えるのを避けているからではないでしょうか。
ですから、記者はすぐに今までの流れを総括して、「アルケーにあいてロゴスがみ神に向かっていた・いる」と続けているのでしょう。
しつこいようですが、この総括の文は一息に読むべきものであって、アルケーやロゴスやみ神を別のものとしてはいけません。この文全体が、絶対者の自己表現的(啓示的)ありかたを「一息」に表現しているのです。

つづく