場所的論理と聖書
ヨハネ福音書の冒頭など (その2)
(2011/9/28)

さて、前回のような読み方には、当然反論があるでしょう。
反論どころか、そんなものは異端、いや異教だとも言われるかもしれません。
だって、先在のキリストの「前」に「場所」を置くなんて、まるで創造神を下等神とし、その上に究極の存在を置くグノーシスそのものじゃないか。
あるいは、神を超えて「神性」に至らなければならないというエックハルト流の神秘主義ではないか。
でなければ、「絶対無における三位一体」を説く、あのカトリック神学ではないか。それは「四位一体」の異端だと呼ばれたではないか。

批判はある意味もっともで、実際そのようなものと差別化するために、アリストテレス流の「主語」中心の論理がキリスト教が発達したとさえ言えるのかなと感じます。(実際、歴史的にどうなのかはわかりませんが)。
つまり、とにかく神やキリストを「主語」、しかも絶対的な「主語」として記述することが、絶対の主権者であるお方にふさわしいのだという伝統ができたのではないでしょうか。
それはそれで価値のあるものだとは思いますが、しかし唯一の仕方だというわけではないでしょう。
実際、そのような「主語」中心の表現の場合、どうしても「主語」となるもの、ここでは神やロゴス(みことば)などを対象化して記述する形になります。
言い換えれば、神をまるで外部から観察するかのような記述になってしまいます。
それは人間の言語表現の宿命であるとはいえ、本来有限な存在であるものが絶対者を「観察」するなど不可能なことです。
相対者に可能なのは絶対者との関係を表現することだけであり、それさえも、究極的には絶対者が相対者を通して行っていることです。
ですから、アルケーやロゴス、あるいは三位一体などを対象化して、それらの諸関係を客観的に記述するのは、すっきりとした論理体系を作るには良いとしても、信仰の実態からはかけ離れた行為であると言わなければなりません。
ですから今日さまざまな角度から、「対象論理」にとらわれない聖書の読み方がなされてきるというのは、歴史的な必然ではないかと思います。

旧約聖書の神を劣等な神とみなすグノーシスの諸系列はともかく、例のカトリック神学の言説を「四位一体」で退けるのはどうでしょうか。ある所で、「どうして絶対無における三位一体なのか。絶対無としての三位一体ではいけないのか」と問われ、たしか、「それでもよい」というような返答がされていたように思いますが(すみません。ここらへんは出所が確かではありません)、それはいい加減な返答ではなく、ある意味当然なのではないでしょうか。
つまり、絶対無や三位一体のような絶対者を対象化して「静的」に記述してしまえば、当然両者は同じものとなってしまうでしょう。両者とも絶対者なのですから。今読んでいるヨハネ福音書に戻って言えば、ロゴスとアルケーは、対象化してしまえば同じものです。ロゴス=キリスト=アルケーです。
別にそれに異議を唱えているのではありません。

しかし、大切なのは動的な事態であって、そこでは、ロゴスとアルケーは単純なイコール(同じものの別称)ではなく、「アルケーにおいてロゴスはある」のです。これをロゴスの方から見れば、ロゴスは自己自身においてある、西田風に言えば、自己が自己において自己を見るということになるでしょう。
でもなぜ「ある」が「見る」になるのか。見るを写すと言ってもよいです(自己写像風表現)が、それは西田流に言えば「表現的」な事態だからでしょう。だから、「自己」といってもそれは静的な「もの」ではなく、「ことば」(表現)なのです。

(注) 伝統的な神学の中には、アルケーを父なる神と解釈しているものもあるようです。その場合、「御子は御父のふところにおられた」ということになります。