場所的論理と聖書
ヨハネ福音書の冒頭など (その1)
(2011/9/26)


聖書についての話ですが、きちっと整理した話ではなく単なる思い付きなので、雑談として書きます。
場所的論理といえば西田哲学ですが、なにしろ難しい。(まあ、ドシロウトの私に難しいのは当然ですが。)
はっきり言って、いろいろな解説書を読んでもよくわかりません。
しかたがないので、解説書の著者の本も呼んで、解説者の考えかたから理解しようとするのですが、
結局、哲学の迷路に迷いこんで途方に暮れる有様です。
というわけで、私が場所的論理などといっても、あくまでアホの独り言に過ぎませんので、悪しからずご了承ください。


さて、有名なヨハネ福音書冒頭、ロゴス賛歌などともよばれる箇所ですが、
直訳すると、「はじめ(アルケー)において、(定冠詞)ことば(ホ・ロゴス)があった(未完了)」と、まあ、だいたいこうなります。
(定冠詞といちいち書くのが面倒なので、「みことば」と表記することにします。)
普通の読み方では、「(すべての)初めに、みことば(キリストを指す)があった(キリストがおられたし、今もおられる、すなわち永遠におられる)」ということで、「はじめに」は単なる時間、あるいは順序をあらわす修飾語です。
そして、当然ですが中心は「みことば」という主語であり、その主語のありかたが動詞で記述されているということになります。

しかし、はじめ(アルケー)を、たんに時系列上の最初としてではなく、万物(時空)に先立ち、それを成り立たせている根拠、西田風に言う「すべてがそこからそこへ」として読むと、
この文のはじめは、「アルケーにおいて」と、いわばアルケーを場所(もちろん物理的な場所ではない)として読めます。
だから、この文でまずはじめに(もちろん単に時間的な順序ではなく)読者に飛び込んでくるのは、「アルケー・根源的な場所において」という事態なわけです。
このあたりは、仏教と係わりがある人たちは、絶対無とか無限のひらけとか呼ぶのかもしれませんが、それはともかく、この福音書が場所についての記述から始まるのは興味深いところです。(あとてイエスが備える場所の話がでてきます)。

で、その「アルケー」根源の場所において何が起こっているのか? 本来名づけることもできないその究極の場所は、自らをあらわす(啓示する)場所であって、私たちはそこに、「みことば」の継続的存在を見ることができます。などというと、なにか「みことば」というものがあって、私たちがそれを見るというイメージになってしまいますが、もちろん、「みことば」は「もの」ではなく、私たちが対象的に見る(考える)ことはできません。
「みことば」というのは語りという事態(できごと)であって、もちろんここでは神的な出来事、すなわち創世記冒頭に描かれているような、神的創造のできごとを表しています。
私たちが対象として見るのは、あくまで創造の出来事の結果としての被造物に過ぎません。それならなぜ「できごと」について語ることができるのか?
それは、「できごと」が「ことば」である事態と関係するからでしょうが、このあたりはややこしいので飛ばします。

ここまでを単純化して整理すると、アルケーという根源的場所の自己限定として、根源的な「こと」、すなわち根源的な言語による創造的な働きがとらえられているということになるでしょうか。
この創造的な働きを対象化して、すなわち、その働きの結果として生起している私たちが定立された上で、自分自身をその働きからあたかも距離を置いて存在しているかのようにみなして、働きの主体を観察するがことくとらえようとすると、すべてがひっくりかえって、「みことば」という主語が、アルケーにおいて(はじめから)あった(存在した)という、普通の文章になるのだろうと思います。

つづく