ホーム
目次へ

おりがみの観点 — おりがみの定義

何かの対象を「おりがみ作品」としてみるという観点を設定しようと思う。 これは伝統的には「おりがみ」を定義するという議論と重なる。

確かに、「おりがみ」と聞いても何のことやらピンと来ないという人には説明する必要があるだろう。 しかし、それ以上に「定義」(What is ...)を与えようとすることにはどんな意味があるだろう。 この点について個人的には懐疑的なのだが、 自分自身の見方を示すという意味で、この問題について触れておく。 ただし、様々に定義を試みる人には、それぞれに目的があるはずである。 ここでの話はここで設定した目的のために述べられるものであるから、 異なる見解に対して論駁するというつもりはない。

分析されるべき、あるいは、叙述されるべき対象を、その定義を与えることによって固定してから始めるというのは、古いヨーロッパの科学(学問全般を指す)からの「しきたり」だ。このようなやり方は、18世紀頃までは実質的な意味があると考えられていたようだが、次第に内容を欠く形式的な作法になってくる。このような変化をもたらした、科学的(つまり、的確な)知識に対する見方の変化やそれを取り巻く社会状況の変化を考えることは、それ自体としては面白いが、ここでそういうことを議論しても仕方がない。「定義を与える」という行為は、当初から非常に広い意味で「政治的」な企てだったのだが、そういったこととは切り離して、ちょっとした言葉や思考の整理として「定義」を考えようということも可能かも知れない。そういう「定義」だとするなら、その「定義」の意味、つまり、定義することの意味、そうすることで何をどうしたいのか、ということを、その都度、与えるべきだろうと思う。つまり、『およそ「定義」である以上、普遍通用性がなければならぬのぢゃ!』と凄むのはナンセンスだ。同じように、ここに書かれている文の断片が普遍通用性を持つかのように考えることも。

ごく表面的で形式的な語句上の問題としても、「おりがみ」の多義性が指摘される。つまり、「おりがみ」というとき、おりがみ用の正方形に裁断された紙を指すこともあれば、紙を折っておりがみをすることを指す場合もある。また、おりがみ作品を指す場合さえある。

紙としての「おりがみ」とそれ以外との区別は容易だ。以下、この文章中では、折紙用紙を指す意味での「おりがみ」は論じない。

上に対して、操作としての「おりがみ」と「おりがみ作品」は混同されやすい。確かに、「おりがみ」操作によって創られた作品が「おりがみ作品」なのだと考えるのなら、一方を規定することと他方を規定することは表裏一体であるようにも見える。

しかし、この混同は避けられるべきだと思う。そして、「おりがみ」操作を基にする方がスッキリするように思う。というのは、ある作品が「おりがみ」であるのかないのかを判定すること、つまり、対象を「おりがみ」であるものとないものとにキッチリと二分することに、重要な意味があるとは思えないからだ。

例えば、ある作品を見て、「これは「おりがみ」とはいえない」と言ったとする。これは肯定的な評価の場合も、否定的な評価の場合も、どちらもありうる。このとき問題になっているのは何だろう。これはその評者の「おりがみ」の定義に当てはまらないということだ、といっても、同義反復で、事柄は一向に明確にならない。上の言い回しは、実際には、その作品のある特徴を問題にしているのである。事柄をはっきりさせるには、「おりがみ」の定義がどうなっているのかと議論するよりも、その作品の、どの特徴、どの性質に着目しているのかを特定する方が、ずっと有意義だ。「これは「おりがみ」とはいえない」という言明に対して、例えば、「じゃあ、「おりがみ」って何だ。定義してくれ。」と詰め寄るのは、発言を咎められて「いつそんなこと言った?証拠は?何時?何分?何秒?」と勢い込んで言い返す子供と同じように、感情的に過剰な要求をぶつけているようにしか見えない。

結局、「「おりがみ」とはいえない」という表現は、「おりがみ作品」である(可能性のある)ものとして提示されたその作品について、それがある属性(制作方法も含む)を持っていること、あるいは、ある属性を持っていないことを問題視しているということを漠然と表現した、曖昧な言い回しの一つだ、と考えれば足りるのではないか。その属性さえ特定されれば、その属性が、なぜそういった評価の根拠となるのか、とか、あるいは、それにもかかわらずコレコレの属性があるので、なお「おりがみ」と言って差し支えないのでないか、といった反論もできるだろう。

さらにいえば、そういった属性に関する議論は、特定の作品がその作品全体の中に位置づけられる当の属性として考えることによってこそ、最も実り豊かになるのであって、いつも他のケースへの抽象的一般的な規則としての適用可能性を顧慮を要求することにどれだけ意味があるのかは疑問だ。

そのようなわけで、定義をするなら「おりがみ操作」に着目する方が良いと思う。しかも、できるだけ「取るに足りない」あるいは自明な定義にしておく方がよい。「取るに足りない」というのは、「本来のおりがみのあるべき姿」、「おりがみのそうあって欲しい形態」、「芸術としてのおりがみのあり方」 等々、「おりがみ」に対する「思い」や「熱意」を定義の中に込めようとしない、ということだ。

そういった理想のようなものや本質のようなものを真摯に追求する事自体は良いことだと思う。そのような思いを持つ人がいなくなれば「おりがみ」は枯死するだろう。けれども、それは、その人がひとつひとつの「おりがみ」を折る行為毎に反映させればよいことではないか。そして、その都度、全然違う理想を求めても構わないのではないか。あるいは、いくつかの考え方ややり方を併行して押し進めてみてもよいのではないか。何か一つの理想を規定して、それで自分の創作を一定期間縛るのは有用なことではあろうが、それで「おりがみ」そのものを規定しようとする — そして結局は規範として他人にも拘束力があると思いなす — のは、あまり意味があるとはいえない。

「芸術的」という点に関しても、芸術的価値があるものだけが“本来の”「おりがみ」であるなどという必要はどこにもないし、「おりがみ」である以上は芸術的に価値がある、などというのもナンセンスだ。「芸術」という言葉が曖昧で、多くの場合情緒的に濫用されることは別として、もし仮に「芸術的」ということで何か重要なことを意味しうるとしても、「芸術的おりがみ」あるいは「おりがみ芸術の本質」なるものが、一般の「芸術的」という観点から離れて別個に考えることができるということはないだろう。まず、「おりがみ作品」があり、そして、それが芸術的価値を持つか、というように展開されなければならない。

ところで、「芸術」という言葉については留保をつけなければならないとしても、「おりがみ」が「芸術」であり得るかという点に関しては、一般の造形創作と同様に、当然、そうであり得る、と考える。もちろん、だからといってすべてのおりがみが芸術であるわけではない。絵画や彫刻にも、そして音楽にも、芸術としての価値がない作品は沢山あるのだから。もっとも、「およそ「おりがみ」が芸術でありうるのか?」という言い方は、「これは「おりがみ」であるのか?」というのと同じように、便宜的な言い方であって、問いの立て方としてはちょっと粗雑に過ぎるものだと思う。

さて、「定義」を与えることを試みてみよう。

「おりがみ」とは、紙など何らかのシートに折るという操作を加えることによっておこなう造形行為である。

「おりがみ作品」とは、「おりがみ」を主たる造形操作として作られた対象のことである。

しかし、これでは「おりがみ作品」であるものとそうでないものとの境界線を綺麗に引くことはできないのではないか、という疑問もわくだろう。その通りである。しかし何のために境界線を引くのだろう。領土争い?ペーパークラフト作品が「おりがみ」操作による造形部分を含んでいる時、その部分に「おりがみ」の手法を見ることに何の問題があるだろう。一般に紙を用いた造形創作作品と「おりがみ作品」の境界は曖昧であると考えてよいのではないか。

「主として」おりがみ操作によっているかどうかについては、評者によって、あるいは同じ人でも場合によって、見方が異なることがあっても構わないと思う。むしろ、「おりがみ作品」であるかどうかは、観点の問題、観察のための手掛かりの問題と見ることができる。つまり、通常は「おりがみ作品」とは考えられていないものでも、おりがみ操作を主として用いた造形作品としてみることができる場合もあるだろう。「おりがみ作品として」見るということだ。我々は様々な所に「おりがみ」を見いだすことができるであろう。そして、ある対象をおりがみ作品として見るということにどのような意味があるのか、と問う可能性も生まれてくる。こういったことが可能であると考える方が「おりがみ」をより豊かなものにするのではないか。 — もっとも、「おりがみ作品として」みるという観点は、その造形作品の作品自体としての真価を見る段階では、無用のものとして消滅しているべきだろうが。

ところで、上の「おりがみ」の「定義」には、「折る」という操作しか含まれていない。「おりがみ作品」を作る際には通常、他にも、ひねる·曲げる·ねじる·膨らます·潰す等といった操作が頻繁に用いられる。もちろん、造形操作にこれらを含んでいたからといって「おりがみ作品」でないということにはならない。造形について「主たる」操作が折ることであればよいのだ。 「主たる」ということは、操作手数が多いということではない。折ることを「主たる造形操作としてみる」ということである。この意味では古典的なおりがみ作品を見るときにも、「おりがみ作品としてみる」という観点の設定は行われていると考えて良いと思う。つまり、私たちは、普通のおりがみ作品をおりがみ作品としている場合でも、そのように見ることによって既に特殊な解釈を経由しているのだ。

↑ページのはじめへ
目次に戻る