開明帝への蜀王朝禅譲説

 秦に滅ぼされた蜀王朝は、開明帝に由来する王朝とされています。では、その開明という人物は何者なのか?というのを、マイナーですが、《水経注》という書物の中から、抜粋してみます。
 《水経注》によると、開明の元の名前はで、(今の湖北、湖南)の人とされています。その開明は、誰かに殺されました。荊の人も助けようとしましたが、助けることはできませんでした。開明の死体は、長江に流されましたが、上流域に存在していた蜀王朝まで流れ着いたところ、突然生き返ったとされます。
 当時蜀を治めていたのは、望帝こと杜宇とされています。杜宇は、この開明を側近として用いたところ、治水の方面で、非常に優れた才能を見せたとされています。
 その後、杜宇の後を妻の朱利が継ぎ、望帝と称しました。しかし、望帝(杜宇の妻)は自分の徳が開明に劣っていると考えるに至り、遂には蜀王朝を開明に禅譲したとされています。
 以上が、《水経注》における開明帝の禅譲です。なにやら死体が生き返るという、キョンシー(中国語で僵屍)のようなお話です。さて、ここで皆さん気付きましたか?この話はどこかで聞いたことがありませんか?そう、これはあのから、への禅譲の伝説と非常に似ています。舜は、治水の面で優れた才能を持った禹に禅譲しました。あまりにも似すぎています。そのために、この開明帝禅譲説には疑問点が残ります。後世の創作の可能性は高いでしょう。武力による開明による政権奪取説のほうが、有力に見えますが・・・。みなさんはどう思いますか?


伝説の蜀に戻る 四川研究に戻る TOPに戻る