中国は建国以来、共産党陣営として、ソ連と歩調をあわせてきた。第一次五カ年計画にしても、ソ連から技術援助を受けて行われたプロジェクトが多く見られる。しかし、60年代に入り、中ソ援助協定は破棄され、中国は独自の道を歩かざるを得なくなった。そして、中ソ国境で小規模な紛争も起こり始めた。また、同時期に台湾国民党政権も、大陸反抗の旗印を掲げ、軍事衝突の危険性が常に付きまとっており、軍備の拡張にせまられていた。しかし、中国の国内は大躍進運動の失敗により、経済の回復が急務であり、重工業、軍備よりも、農業を重視する政策が採られていた。この状況下で、1964年にアメリカがベトナムに軍事介入する。いわゆるトンキン湾事件が起きた。これによって、中国は、北にソ連、東に台湾(国民党)、南でアメリカと対立し、急速な軍備拡張にせまられた。そして、1964年ついに毛沢東は三線建設の決定を下す。三線とは、戦争の危険性が高い沿海部、東北部を一線とし、戦争の危険性の低い内陸部を三線、その中間を二線とし、中国が全面的核戦争に突入することを想定した上で、万が一沿海部が壊滅状態に陥っても、内陸で抗戦できるように、内陸に軍需工場を建設し、さらに、沿海部の工場、技術者をを戦火から避けるために、内陸に移転させ、後方基地建設をすすめたのが三線建設であると言われている。