レベル必勝講座・解答編

※日本語訳は三潴先生の授業に準拠しています。

<平成12年度2学期第4回>

レベル2

@他从1983年18岁时就开始做生意。

A中国女子垒球队以5:0轻松地战胜了意大利队。

B现在每过1秒钟,全世界就有7个人首次上网。

C与其坐等优惠政策,还不如扎扎扎实实干起来。

<レベル2の日訳>

@彼は1983年18歳の時から、もう商売を始めた。

A中国女子ソフトボールチームは5対0のスコアでイタリアチームに楽勝した。

B現在1秒ごとに全世界で7人の人が始めてインターネットにアクセスしている。

C座して優遇政策を待つよりも、着実に仕事を始めたほうがよい。

《レベル2のポイント》

@“就”には、もう、早くもというニュアンスがある。

A“以〜”「〜というスコアで」

B“上网”「インターネットに接続する」

C“与其〜,不如…”文語だけでなく口語でもよく使う「〜するよりは、・・・したほうがいい」「〜するくらいだったら、・・・したほうがましだ。」

レベル4

@她说,作为美国海尔的优秀员工,能够到海尔集团总部参加运动会,感到无比高兴和自豪。

A     2003年三电站开始发电以后,国家每年将从电费收入中拿出一定资金,对外迁移民进行后期扶持。

B     1993年和1995年江泽民和卡斯特罗主席实现互访,为中古关系的进一步发展奠定了坚实的基础。

 

<レベル4の日訳>

@     彼女は言った。アメリカ海爾の優秀な従業員として、海爾グループの総本部に行って運動会に参加することができて、この上もなく嬉しく誇りに感じている。

A     2003年に三峡発電所が発電した後に、国は毎年電気料金の収入のなかから、かなりの資金を取り出して、外部へ移った移民に対してアフターケアを行なうだろう。

B     1993年と1995年に江沢民主席とカストロ議長は相互訪問を実現させ、中国、キューバ関係のいっそうの発展のためにしっかりとした基礎を築いた。

 

《レベル4のポイント》

@     “作为「〜として」 “海尔集团”「海爾グループ」中国の大手家電メーカー。 “感到”は文語体で感情を表すときによくもちいられる。

A     “将”「〜だろう」 “一定”ここでは「かなりの」

B     “互”“互相”“互助”など、「お互いに」という意味で用いられる。 “为「〜のために」 “进一步”「いっそう」

 

レベル6

@     中国驻美国大使李肇星在致欢迎辞时首先祝贺中国残疾人艺术团在爱达荷州和犹他州演出的成功,并预祝他们在华盛顿的演出再次取得成功。

A     为支援西部大开发清华大学专门派出了由校党委书记、校长亲自带队的包括科技、管理、产业等各领域专家和技术骨干的智力支边团。

 

<レベル6の日訳>

@     中国駐アメリカ大使李肇星は歓迎の言葉を述べる時に、まず、アイダホ州とユタ州における、中国身体障害者芸術団の公演の成功を祝い、さらに彼らがワシントンの公演で再度成功を得ることを祈った。

A     西部大開発を支援するため清華大学は、特別に大学党委員会書記、学長自ら率いた科学技術、管理、産業等の各分野における専門家と主要技術者を含む辺境頭脳チームを派遣した。

 

《レベル6のポイント》

@     非常に訳しにくい文A・・・この場合“在”“的”にはさまれた部分を先に訳すと訳しやすい。「〜におけるAの・・・」 詳しくは1学期第一回レベルの開黄槍参照。

A     “为「〜のために」 “由带队”「〜によって率いられた」

 

【四川人の開黄槍】

     開黄槍とは四川方言で知ったかぶりという意味である。

 

     開黄槍とは四川方言で知ったかぶりという意味である。

 

11期三中全会 そして今年の15期五中全会へ

 今日の中国は197812月の11期三中全会から始まった。中国は49年の建国以来苦難の連続だった。50年代には大躍進運動の失敗や右派闘争があった。66~76年までのご存知文化大革命では国内が大混乱に陥った。その文化大革命も76年に終結し、華国鋒政権のもと新たな中国がスタートするものとおもわれたが、それもわずか2年で頓挫することになった。そして迎えた7812月の11期三中全会、ケ小平が政権を執ることとなった。ケ小平はかつて言った。「白い猫だろうと黒い猫だろうと、ねずみを取る猫はいい猫だ。」改革開放はこの時スタートしたのである。具体的に何が行なわれたかと言うと、外資を積極的に導入し沿海地域の急速な開発が行なわれた。ケ小平の考えとしては、まず一部の人々を豊かにさせ、それを徐々に全国に波及させていくというものであった。途中、天安門事件というアクシデントもあったが、沿海都市に経済特区を設立し外資に優遇政策を施し、沿海14都市の開放、上海浦東地区の開発など、11期三中全会から20年を経過して順調に発展していると言える。10年でGDP2倍、20年で4倍という発展目標は軽々とクリアされた。しかし、同時に問題も数多く現れている。東部地区が急速なスピードで発展し続けたのは良かったが、西部地区は、そのスピードについていくことができなかった。その結果現在、最も貧しい貴州省の人口一人あたりのGDPは、上海の十分の一以下となっている。

 そして中国が改革開放の次にとる政策は西部大開発である。これは未だ多くの貧困層を抱える西部地域を発展させる政策である。西部大開発は2001年第105カ年計画より本格的にスタートするわけであるが、西部大開発について2000年の五中全会でより具体的な方針が定められた。西部大開発について述べると長くなるのでここではやめておくが、中国近代化の第一の矢が改革開放だとすれば、今度の西部大開発は第二の矢であると言える。中国の開発は東部地区から西部地区へと移行する。

(この文章は200010月に執筆です。)


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