綿陽、企業城下町の形成と発展


 綿陽と言えば四川長虹の企業城下町である。もはやこの件に関しては言うまでもない。綿陽は長虹を中心に、その関連企業によって企業城下町を形成している。都市全体の工業生産額に占める長虹、および関連企業の割合は圧倒的なものである。<注1>そのため、都市の生産額における、国有企業の占める割合は約77%と、全国の中でも国有企業の占める割合が大きいとされている四川、重慶の中でも、その比率は圧倒的である。
 近年内陸部、特に四川、重慶の産業のイメージは、大型国有企業、重化学工業中心、非効率と、郷鎮企業や、三資企業の発展した沿海地区と比較され、批判されつづけてきた。そして、全国的に全企業における国有企業の占める割合も下がりつつある。国有企業淘汰の時代がいよいよやって来たようにもみえる。国有企業は時代遅れと言われながらも、四川長虹はいつの間にか世界で有数の技術を備えた企業となり、技術を外国に学んでいた企業から、他国に技術供与を行う企業まで成長した。ロシア企業との提携技術供与がそれを物語っている。そんな現在だからこそ、異質の国有企業と言ってもよい四川長虹グループにあえて注目してみたい。

工業都市の生産額構成比(%)
  国有企業 郷鎮企業
全国平均 41.03 21.98
重慶 57.02 22.54
成都 38.65 33.3
綿陽 77.22<注2> 8.58
徳陽 43.53 36.98
《四川統計年鑑》《重慶統計年鑑》

《中国統計摘要》より作成

  • この図からわかるように、現在の綿陽の所有構成は、改革開放が始まったばかりの80年の全国平均と変わらない。
  • その他は主に三資企業である。

T.なぜ四川長虹は発展できたか?


四川長虹は第一次五カ年計画の50年代に、ソ連からの援助による電子工業プロジェクトとの一つとして、軍事用レーダーの生産から始まったが、当時はまだ無名で、家電も生産していない。家電を生産するようになってのは70年代に入ってからである。文化大革命の影響を受けて、停止していたレーダーの生産ラインを、民需製品生産に転換し、白黒テレビを生産したのが家電メーカー長虹の始まりである。
改革開放のスタートにより、内陸部を取り巻く環境は変わった。沿海部重視の発展政策が採用され、内陸部開発はは後回しにされた。また四川省のなかでも、重点開発地域に指定されたのは重慶を中心とする長江上流域だった。そのため、四川省の北部地域は独自の発展を余儀なくなり、政府の保護がえられず、工場長責任制による企業改革が採用されたわけだが、この当時行った企業の経営自主権拡大、工場長責任制、優秀な経営者、結果的にこれらが、四川長虹を成長させた最大の要因ではないかと考えられる。政府の保護をうけた企業は、多少の赤字を出しても政府から補填がうけられた。重慶の企業などはその典型であるといえる。しかし、長虹のような企業は政府の援助を受けられないので、業績を上げられなければ倒産するだけだった。ここに市場競争という意識が生まれた。その点で、経営陣の意識が異なっていたと考えられる。四川省というのは、意外と私営企業の発展している地域であるが、多くの私営企業が発展できたのも、政府の保護を受けられないので、経営陣の中に旧来の社会主義から脱却した意識改革があったものと考えられる。<注3>生産請負制(承包制)が中国で初めて採用されたのもこの地域、四川省北部である点からも、この地域の意識改革は、中国の他の地域よりもすすんでいたと考えられる。<注4>皮肉なもので沿海部にあった国有の家電メーカーは、ほとんど長虹をはじめとする国家の庇護を受けられなかった企業(郷鎮企業等も含む)に淘汰されているのである。
 そして、インフラ、流通というのも一つのポイントである。ここで言うインフラ、流通がポイントというのは、四川省では全体的にインフラ、流通が未発達だったという点である。四川省の中心は四川盆地に位置し、四方を山に囲まれている。いわば陸の孤島とも言える。そのため資本を自由に移動させることができない。長虹は、この不利な点を逆に利用した。外部からの資本の移動がない状況で、まず人口の多い四川省一帯を押さえ、圧倒的なシェアを占めた。競合のない地域を手堅く押さえた。そして外部のメーカーが入りづらい状況を作り出し、省外に進出した。現在四川長虹のカラーテレビの全国におけるシェアは約20%であるが、四川における長虹のシェアは40%を超えるとも言われている。
 改革開放が進むにつれて、人々は裕福になり、消費構造は変わった。文化大革命のころの、物不足の時代は過去のものとなり、テレビをはじめとする耐久消費財の消費が、90年代に入ってから全国的に伸び、それにつれて四川長虹の売上も右肩上がりに上がった。四川長虹には時代が味方についた。

U.四川長虹の経営戦略、軍転民を巡る国との対立で勝ち取ったもの

 企業にとって、経営者の経営能力は死活問題にかかわる。四川長虹の倪元社長(総経理兼董事長)は98年の日経新聞アジア賞経済発展部門を受賞している。国営企業が国有企業と改められる以前、四川長虹(前身は長虹機器廠)の経営者は「国」だったはずだが、長虹は違った。倪社長の戦略は国家構想と異なるものだった。80年代に入り積極的にテレビ生産を開始するのだが、本職のレーダーの発注は激減した。政府の軍備削減方針により、発注や各種補助金は大幅にカットされた。ゆえに企業の生き残り策として、長虹はテレビの生産に活路を見出そうとしたのだった。その一方で軍部から「軍需工場でありながらテレビを生産するのは任務の逸脱である、すぐに方向転換せよ。」と批判を浴び、圧力がかかった。<注5>ここが長虹の分かれ道だった。国に従えば補助金も受けられる。逆らえば補助をえられず、自力で発展の道を切り開くしかない。長虹はテレビの生産を選択した。国と対立したが、業績を上げることによって、最終的に国からの評価を勝ち取った。このことは中国において画期的なことである。三線建設、文革を思い出してもらいたい。当初三線建設の中心にいたのは彭徳懐である。その彭徳懐が失脚後、三線建設の中心企業は迷走を始めた。これは中国が縦割り型のシステムだったことを意味する。上層部(軍部)の混乱がそのまま下層部(三線企業)に直結していた。下層部は、上層部の指示を受けて動いていた。文革終了後もこのシステムは、国有企業において継承されたが、それに異を唱え、初めて成功したのは四川長虹である。80年代の、国有企業改革における、工場長責任制、経営自主権の拡大、モデル企業など、さまざまな試みが行われてきたが、そのような政策は初めから国に政策としてあったわけではない。これらは、長虹をはじめとする企業が国と戦い、その中で勝ち取ってきたものなのである。
 その倪社長も2000年に第一線から退いた。ここ数年長虹は低迷とまではいかないが、沿海企業の逆襲に遭い、その中国市場における圧倒的な圧倒的な地位を失いつつある。これはデフレ現象と、他企業のコンピューター技術の進歩、輸出面の劣勢が考えられる。倪社長が一線から退いたその後の長虹の戦略も以前と変わらない。その圧倒的資本力で他企業を買収し、潰し、勢力拡大という点は変わらない。そして、ついに電子産業の先進地域広州市場を目標に定めた。ここには長虹に続く大手テレビメーカー、ビック3のうちの2社である康佳、TCLが本拠を構える地域である。このことからも、今後も長虹が全国展開していくのは間違いないだろう。長虹はデフレにもかかわらず、リスク覚悟で、そのブランドと圧倒的資金力で、より全国的に勢力拡大をめざすだろう。

V.多様化する国有企業のなかで綿陽が示した国有企業改革

 現在一般的に、国有企業が中国の近代化を妨げている原因の一つとされている。中国政府も「三大改革」<注6>の一つとして国有企業改革を挙げている。現在中国各地区の国有企業はリストラ策を進め、職を失った「下崗」の問題が社会現象になって久しい。年々全国の総生産に対する国有企業の生産比率は下がりつつある。しかし、綿陽は時代を逆行している。国有企業が地域の発展を促進し、勢力を拡大させ余剰労働力を次々に吸収している。
国有企業は、92年の十四全大会で正式に定義づけられた。それまでの国営企業は、国が所有権と経営権を保持していたが、国有企業と改められることによって、国は所有権を保持するのみとなった。しかし、現状中国における国営企業と国有企業の違い、及び国有企業の役割が曖昧である。
 まずは中国における国有企業の役割だが、もともとは2つの役割がある。1つは、国が重要な産業(基幹産業)を管理し、積極的に資金を投入し発展させる役目、もう1つは労働力を吸収するという点(社会保障)である。現状の中国の国有企業は多様化しており、さまざまな変化を見せ、ある企業は外資と提携し、ある企業は株式を上場し資金を集めるなど、かつてのように、義務付けられた国有企業のあるべき姿はない。
 この状況下で、中国の不振国有企業、特に四川、重慶の国有企業が抱える問題点の1つは、前述の2点を1つにしてしまっていたことではなかろうか。基幹産業を重視し、発展させる(近代化させる)ということと、基幹産業の雇用を重視するということは、本来全く別次元の問題である。ここが曖昧だった。多くの企業が選択したのは雇用も保持することだった。大量の労働力吸収を期待できない産業、必要としない産業に、初めから多くの労働力を背負わせてしまったために、効率が上がらず、業績が悪化し、それらの基幹産業は赤字となっている。結果的に国が介入するような産業も出てしまい、国有企業とは言うものの、事実上は国営といっても過言ではない企業がある。その典型が軍需産業ではなかろうか。国が重視する産業としての国有企業と、労働力を吸収するための国有企業の2分化をすれば、違った道を歩んだのではなかろうか。
では、長虹はどのような国有企業だろうか。長虹の場合は、初めから現在のような大型の国有企業だったわけではない。改革開放につれて、その規模を拡大させ、株式制に移行した。国有ではないが、中国における最大の企業集団のひとつ、集団所有制企業の雄である海爾集団を見ても、似通った発展の経過を経ている。始めは地方の弱小企業から出発し、優れた経営者(海爾は張瑞敏社長)を中心に、小企業から大企業へ、不振企業から優良企業へと、十数年で急速な発展を遂げた。長虹の場合は、改革開放の初期段階から、「国営」の企業ではなかった。その経営に関して、結果的に国を介入させなかった。経営権は地方政府に委ねられた。現在国有企業改革の中で「抓大放小」政策がとられているが、当時、沿海部が大で、長江流域を除いた内陸を小と見なした「抓大放小」が行われたとも言える。長虹は独自の発展を模索した。そして、長虹が行ったと言うべきか、落ち着いたというべきか、その発展の道は、都市の企業城下町化だった。綿陽の場合はむしろ、企業が都市を飲み込んでしまったといえる。企業によって綿陽市の産業構造の転換が行われ、余剰労働力、農村人口を次々に吸収している。綿陽市は、市区を現在の2倍以上に拡大する計画(2010年までに現状約40万の都市人口を100万人にする)があるが、そのほとんどは、長虹と、その関連企業で占められるのは間違いないだろう。近年(98年)綿陽―成都間の高速道路が完成した。そもそもインフラ開発、特に中国西部地区のインフラ開発の歴史は、地域の発展を促すための開発という意味合いが強い。西部地域では、まずインフラ建設をしてから地域開発というのがいままでのパターンだった(これまでの章を参考)。この綿陽―成都の高速道路開発にしても、もちろん地域開発の意味もあるが、都市の発展が作り出した交通インフラという意味も持つ。国が企業を動かしていたのは過去のこと、ここでは企業が地域を動かしている。

W.綿陽の経験を踏まえた上での、中小国有企業の課題

 「抓大放小」、大型国有企業を重視するこの政策は、中小の国有企業にとって、一見冷酷に見える。それは、国が重視するのは大企業、基幹企業のみで、これまで保護していた中小の国有企業に、保護しないと突きつけた感もある。倒産しそうな企業は、倒産してもかまわない、という見方もできる。中小の企業にとっては正念場である。しかし、長虹はどのように発展しただろうか。当初、長虹は決して大型企業集団ではなかった。基幹企業ではなかった。政府の保護を得られたわけではない。しかし、結果的に国が介入してこなかった(手を引いた)ために、独自の発展の道を模索することができた。だからこそ国に保護されない中小の企業は今がチャンスであるとも言える。たとえば基幹産業の一つである鉄鋼の現状はどうであろうか、国が積極的に介入している。このことは、すべてが当てはまるとは限らないが、企業の独自の発展チャンスを奪っている。これも世界最大の生産規模を誇っている産業の現状である。「抓大」は大型国有企業の安泰を示しているわけではない。中小企業も十分に発展のチャンスはあるはずだ。四川長虹はまず、日本の大手家電と提携を結び技術力をあげた。時はまさにWTO加盟である。淘汰される可能性もあるが、飛躍する可能性もある。「抓大放小」は、中小の企業にとってレイオフ、倒産によるマイナスの効果が大きいと言われているが、そうとは限らないはずである。
 まず、軍転民という方向性をしっかりと定め、小企業を大企業に発展させ、その過程で、都市建設をすすめ、その都市の特色を全面的に出した企業城下町を形成させたのが長虹である。中国の中小国有企業も長虹のように、軍転民なら軍転民、外資と提携なら外資と提携と、まず方向性を定め、都市建設を進めながら産業を発展させていくというのは、ごく当然の選択肢のはずである。

2001年1月


<注1>
《四川統計年鑑》《四川年鑑》によると、綿陽市の、全工業生産のうち電子工業関連の占める割合は50%強である。
<注2>
ちなみに四川長虹は電子工業部門だけで綿陽の工業生産額の約10%を占めている。
<注3>
四川には現在、新希望集団(飼料)、通威集団(製薬)などの中国で1、2を争う私営企業が育っている。
<注4>
「人民日報」及び「人民日報CD-ROM版」によると、70年代中盤ごろから、次第に広漢市(徳陽市管轄)に農地改革が行われ、78年ころより、請負制が本格的に始まる。
<注5>
『挑戦する中国内陸の産業』p185−186より引用
<注6>
97年の十四全大会で提唱。3年以内に赤字国有企業を黒字に転換させる。


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