簡略四川近現代史これは簡略(手抜き)の四川近現代史です。近いうちに詳細四川史を作ります。 T.1800後半、洋務運動
四川、重慶の開発は1800年代後半から始まる。中国はアヘン戦争に敗れ、欧米列強が中国に進出し始めた時代である。長江沿岸都市の一つとして重慶は開放され、四川、重慶の開発が始まった。官営の製鉄所等は1870年代に建設が始まる。その後、上海を中心とした沿海部から、官営の企業を中心に内陸移転が始まる。このころの産業の中心は鉱業、運輸、インフラ建設などである。 U.1930代、抗日戦争
重慶の現在の産業構造はこの時期に主に形成される。日本軍の中国侵略によって、中国の中心であった長江下流域は壊滅的なダメージを受ける。それにつれて、国民党政府も、南京から、武漢、最終的には重慶に首都を移転させる。国民党の遷都に伴い、当時の重化学工業を中心とした重要な産業も内陸の重慶に多数移転され、さらに戦争の必要性から多くの軍需工場が建設される。こうして、現在の重工業都市重慶がほぼ形成された。1940年の統計によると、移転工場は全部で448、そのうち重慶を含む四川省への移転は254工場で、全体の54.7%である。移転元は上海と武漢からが約70%を占める。<注1> V.1950代、大躍進
50年代に入り、中国政府は地域開発を意識し始める。沿海部の発展だけでなく、内陸の発展に着手し始める。時おりしも、中ソ蜜月時代であり、まず第一次五カ年計画で、地域開発、東西格差是正の意味を含めて、四川省には主に科学プロジェクトが割り当てられる。そして、鉄道インフラ整備にかかったが、大躍進運動の失敗により、多くのプロジェクトは財政面で頓挫し、50年代に完成したのは早期に着工された宝成鉄道、成渝鉄道だけで、成昆鉄道等は未完に終わる。 W.1960代、三線建設
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改革開放が始まり、国は軍事重視戦略から、経済重視戦略へと戦略転換を行う。その中で重視されたのは沿海地区で内陸部は後回しにされた。行き場を失った三線時代の軍需工場は、民需工場への転換に活路を見出すが、効果的な優遇措置が得られず、積極的に改革が行われた沿海部との経済格差は広がる一方だった。そして、貧困改善のために四川省は重慶を切り離し、それぞれ別に発展させる戦略を採用することを決定した。
注1
『挑戦する中国内陸の産業』p17 より。
注2
《中国固定資産資料》《中国固定資産統計年鑑》より。四川、雲南、貴州、陜西、湖南、湖北、河南、山西、甘粛、青海、寧夏の合計。四川省(重慶を含む)のインフラ建設投資額は以下の通り
単位:億元 年代 全国 四川 全国比 一五(53〜57) 588 27 4.59% 二五(58〜62) 1206 70 6% 63〜65 422 31 7.30% 三五(66〜70) 976 132 13.50% 四五(71〜75) 1764 136 7.70% 五五(76〜80) 2342 125 5.30% 六五(81〜85) 3410 158 4.63% 七五(86〜90) 7349 364 4.95% 八五(91〜95) 23584 1150 4.87% 《中国固定資産統計年鑑》より