金庸を斬る!武侠小説を斬る!

射雕英雄伝に見る共産党批判

 射雕英雄伝に出てくるモンゴルは中国共産党、チンギスハンは毛沢東、よく言われることですが、このことについて少々考えて見ましょう。ちなみに私は中国共産党とはなんら関係はありません。

 とりあえず簡単に中華人民共和国成立後の中国史と金庸の関係ををおさらいしてみましょう。
中国の出来事 金庸
1949

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中華人民共和国成立


八全大会
百家争鳴・百花斉放
反右派闘争

大躍進運動
廬山会議

中ソ援助協定破棄



7千人大会


トンキン湾事件

文化大革命


珍宝島事件

林彪クーデター未遂


『書剣恩仇録』を発表
『碧血剣』を発表

『雪山飛狐』を発表
『射雕英雄伝』を発表

『神G侠侶』を発表
『飛狐外伝』を発表

『倚天屠龍記』を発表
『白馬嘯西風』を発表
『鴛鴦刀』を発表

『天龍八部』を発表
『連城訣』を発表

『侠客行』を発表

『笑傲江湖』を発表

『鹿鼎記』を発表
『越女剣』を発表

 まずは『射雕英雄伝』が書かれるまでの時代背景です。
 49年に中国成立後、社会主義全盛の時代、社会主義陣営の中で、中国は順調な成長を遂げていきます。しかし、ソ連で異変が起きます。スターリンの跡を継いだフルシチョフが公然とスターリン批判を行いました。それまでレーニン・スターリン路線を行ってきた毛沢東にとって、これは一大事です。そこで56年の八全大会以降、毛沢東は党の引き締めを行います。それが百家争鳴・百花斉放です。具体的には、人々に党の批判など自由な議論を行わせました。しかし、あまりにも白熱しすぎた共産党批判に毛沢東は危機感を募らせました。そこで一転反右派闘争を行います。百家争鳴・百花斉放で共産党批判を行った人たちを粛清にかかりました。
 これまでが『射雕英雄伝』が書かれるまでの経緯です。

 結論から言えば、『射雕英雄伝』のチンギスハンは、「独裁者」毛沢東ではない。我々がイメージする「皇帝」毛沢東は、文化大革命の毛沢東である。しかし、『射雕英雄伝』執筆時、57年は、劉少奇もケ小平も彭徳懐も、皆失脚していない。当時の毛沢東は必ずしも「皇帝」「独裁者」とは言えません。現に60年代、国家主席(現在とは多少異なる)は劉少奇であり、毛沢東を批判して失脚彭徳懐も政界に復帰を果たしている。(二人とも後に失脚)

 ちなみに文化大革命というのは、文芸批評から始まります。事の始まりは、呉ヨ(ごかん)の歴史劇、『海瑞罷官』に対して、四人組のひとりである姚文元が、『海瑞罷官を論ず』という文章を発表したことに始まります。その後、京劇改革が唱えられるなどして、文化大革命は始まります。ちなみに批判されたのは王・侯・将・相・子・佳人であり、賞賛されたのは労農兵です。スローガンは「造反有理」ですが、よく考えてみれば、金庸作品って、皆「造反有理」ですね。(笑)

 文革期、毛沢東=始皇帝、周恩来=周公旦という視点から、始皇帝賞賛、周公旦批判が行われていましたが、果たしてこれと同じなのでしょうか?『射雕英雄伝』執筆時と、文革期では時代背景が違いすぎます。

 思うに、果たして実際に『射雕英雄伝』を読んで、チンギスハーン=毛沢東、モンゴル=共産党を連想した人はいるのだろうか?そして、たとえ連想したとしても、文革が発動される前の毛沢東と共産党を連想した人はいるのだろうか?おそらくそんな人はいないはずである。『射雕英雄伝』は文革の前に執筆された小説である。それどころか、大躍進運動も行われていなければ、廬山会議(彭徳懐失脚)も開かれていない。
 故に私は言いたい。チンギスハーン=毛沢東、モンゴル=共産党をなぞらえて、暗に批判したというのは、先入観以外の何者でもないのではなかろうか?
 ただ、もしかしたら金庸は反右派闘争を批判したのかもしれない。この可能性はゼロとは言えないが、かなり薄いだろう。