3年B組金八先生7(1)〜(10)
2005.1.7 up


演出:福澤克雄(1)(4)(5)(8)、三城真一(2)(6)(9)、加藤新(3)(7)(10)
 1.集団芝居を重視した1〜5話

第10話までの「金八」第7シリーズは、「ソーラン節まで」(1〜5話)と「ソーラン節以後」(6〜10話)に分けて考える必要があります。

「ソーラン節まで」の脚本は“金八 vs 3B”の対決を描くことに重点を置いていて、個々の生徒の内面やバックグラウンド(家族)などは、後回しになっていたようです。一人一人の生徒役に求められていたのは、存在感を示すことではなくて、“うるさい3B”の構成要素(部品)になることだったといえます。丸山しゅう(八乙女光)は例外ですが、その他の生徒には内面描写らしきものはほとんどありませんでした。たとえば、第3話の補聴器事件で暴れたソン=園上征幸(平慶翔)にしたって、内面やバックグラウンドの描写は、未だにありません。

福澤Dの演出も、こうした脚本の内容に対応したものだといえます。具体的に挙げると、集団芝居の重視、怒鳴る芝居の多用、コミカルなテイストの強調、迫力のある録音……などです。第5・第6シリーズの第1話がシリアスでヘビーな仕上がりだったのに対して、今回の第1話は、笑いをねらったドタバタ系の芝居の多さが目立ちました。BGMにもフュージョン風の曲があったりして、これまでとは違ったテイストをねらっていたようです。

教室のシーンで注目しておきたいのは録音です。(実際にどういう録音をしたのかは知りませんが)指向性の広いマイクを使用したと思われる、ノイズが多くて音の分離の悪い録音になっていました。金八の声なども、教室の後の方のマイクで集音したような質感になっていました。こういうのは臨場感重視の演出といえるのですが、この種の録音を長時間にわたって聞かされると聴覚の神経が疲れます。おそらく、第1話を見て不快に感じた視聴者の多くは、ドラマの内容ではなく、録音に不快感を感じていたのではないでしょうか。

怒鳴る芝居の具体例としては、花子先生夫婦をあげておきます。今回のシリーズでは、教室だけでなく、職員室や家庭のシーンでも怒鳴る芝居がやたらと目立ちます。こうした一連の演出が迫力と笑いを意図しているのは間違いないのですが、少なくてもボクはほとんど笑えませんでした。

 それにしても「金八の言うことを聞かない生徒」というのは、シリーズのメイン(第1話)に持ってくるほどの面白いネタなんでしょうか? サブタイトルには「史上最低の3B」とありましたが、担任教師をボコボコにしちゃった兼末健次郎の3Bの方が、よっぽど“最低”だと思います。まあ、世の中には、金八の説教が通用しないのを見て「リアリティがある」なんて思う人もいるのかもしれませんが、それは「金八」嫌いの人がよく口にする単純な批判と同レベルの感想ですね。当の「金八」がそんなものを目指しちゃいけません。(^_-)

 2.生徒役の存在感が希薄

こうした脚本・演出のデメリットとして最も大きいのは、一人一人の生徒のキャラクターや存在感が希薄になってしまったことです。“うるさい3B”の印象は強烈なんですが、一人一人の生徒の存在感が希薄になってしまい、印象に残るキャラクターが見当たりません。

集団芝居の出来は、第1話だということを考慮するなら、かなりの完成度だといえるのかもしれません。ただ、押しの強い芝居を強調しすぎたためか、一つひとつのお芝居のニュアンスとか間(ま)が吹っ飛んでしまって、逆に平板な印象を強めてしまったように思います。強調しておきたいのは、完成度が高いとはいっても、舞台俳優が演じる集団芝居のレベルには程遠いということです。イヤミな書き方になってしまいますが、ボクが「金八」に期待しているのは、この種の“出来のいい学芸会”ではないです。

ただし、生徒役の存在感が希薄なのは脚本・演出だけの問題ではないかもしれません。率直にいって、今回の生徒役には色気や魅力が足りないような気がします。丸山しゅう役の八乙女光などは、表情のニュアンスに力があって、なかなかの逸材だとは思いますが、それでも、かつての風間俊介や上戸彩に比べると見劣りしてしまいます。ドラッグ疑惑が濃厚な小野孝太郎(竹内友哉)なんて、ストーリー的には美味しい役どころのハズなんですが、単に憎たらしいだけで魅力が感じられません。演出的にもあまり力が入っていないように思えます。今回は、集団芝居に重点を置いてキャスティングをしたため、こうなってしまってのかもしれませんが…。

ところで、ちょっと前に「2ちゃんねる」を読んでいたら、今回の生徒役は台詞回しがしっかりしていて上手い……なんていう書込みを目にしました。そんなことに、どれほどの価値があるんだか疑問ですが、“出来のいい学芸会”が好きな人には好評なのかもしれません。(^^;; しかし、中途半端な上手さこそが没個性や没色気(?)の元凶だ、というのがボクの考えです。例外的によかったのは、ソーラン節が終った直後の生徒たちの表情アップでしょうか。今回のシリーズ(10話まで)で、生徒役から色気とかエロスを感じることができるのは、おそらくこのシーンだけです。

以上、「ソーラン節まで」の特徴を中心に、あれこれ話題を広げてしまいました――。

 3.旧作からの安易な流用が目立つ6〜10話

さて、「ソーラン節以降」になると、金八と3Bの対決に決着がついたせいか、脚本・演出に若干の変化が見られます。それまで、あまり描かれることのなかった、しゅう以外の生徒の家庭環境や内面が描かれるようになりました。小塚崇史(鮎川太陽)、長坂和晃(村上雄太)、稲葉舞子(黒川智花)らの家族が登場するようになったほか、生徒間の友情や恋愛感情に焦点が当てられるようになりました。ただ、これらの描写の多くは、どこか付け焼刃的な印象がぬぐえません。特に恋愛感情に関する部分は、単に“見つめる芝居”を繰り返しているだけで、それをフォローするようなエピソードが出てきません。ひょっとしたら、放送開始後の評判の悪さを考慮して、急遽付け加えられたネタなのかもしれません。

第6シリーズの、直&ハセケン、直&信太、直&直美などは、人間関係が生成・変化していくプロセスが段階的に描かれていたのですが、今回のシリーズにはそういう部分がないので面白みに欠けます。第6シリーズにおける周到な人間関係描写は、野島伸司や「ブギーポップは笑わない」に匹敵する完成度でしたが(詳しいことは当時の日誌を参照してください)、それと比べると今回はかなり見劣りしてしまいます。

また、しゅうが甲本雅裕にボコボコにされるシーン(第8話)なども、第6シリーズの成迫政則を連想させますが、しゅうのキャラ設定や演出自体が、兼末健次郎・鶴本直・成迫政則の再利用みたいなので、驚きもインパクトも感じません。そもそも、ヤクザに追いかけ回されるエピソードを延々と続けることに何の意味があるのかさっぱりわかりません。「逃亡者」じゃあるまいし…。単に、その場しのぎの視聴率対策なんでしょうか?

教室のシーンの演出は、やや落ち着いた感じに変わって来ているようですが、それでも、第8話(福澤D)のホームルームのシーンなどでは、伸太郎(濱田岳)の過剰なコメディ演技が鼻につきます。もちろん、これは演出上の問題なんであって、濱田岳に罪はないのだと思いますが……。(^^;; 今回の生徒役って、積極的に演技をすればするほど、単に自己顕示欲が過剰なだけの素人芝居に見えちゃうんですよね。一言で言うなら“やりすぎ”。もう少し長く言うなら“ネタの取捨選択ができていない”っていうことです。

 4.三城D・加藤Dの演出

福澤Dの演出に対して明らかに異質な演出をしているのが三城Dです。福澤Dが、押しの強さや迫力を重視しているのに対し、三城Dは叙情性とかニュアンスを重視した演出をしています。このことはBGMの選曲に顕著で、コミカルだったりドタバタしているシーンでも叙情性の強いBGMが流れていることが多いです。また、車掌=金丸博明(府金重哉)の芝居などでも、怒鳴る芝居よりもニュアンス重視の芝居演出をしているようです。今回のシリーズでは福澤Dの“押しの演出”が鼻につくので、三城Dの“叙情派の演出”が光っています。特に第6話のラストに登場した、夜の商店街を金八親子3人で歩くシーンは印象的でした。

とはいっても、あくまでもこれは比較の問題であり、三城Dの演出がとり立てて素晴らしいというわけではないです。三城Dの場合、あいかわらず、わかりづらい演出が多いのが気になります。しゅうが電話相談(第6話)で「担任に嫌われたみたいです」と話していたのは、朝のホームルームのシーンが伏線になっているのですが、最初に見たときはわかりませんでした。おそらく、他にもボクが気づいていない演出がたくさんあると思われます。  ちなみに、三城Dの演出作品で忘れられないのは前シリーズの第10話です。嵐の前の静けさ的な脚本と三城Dの“叙情派の演出”がマッチしていて、個人的には「金八」史に残る名作(地味ですけど…)だと思っています。詳しいことは当時の日誌(2001/12/13)を参照してください。

加藤Dは福澤Dに魂を売り渡してしまったみたいで、大きな違いは見出せません。ちなみに、第10話のホームルームで伸太郎が、しゅうや孝太郎を謝らせるシーン。机を叩きながらしゃべる生徒が何人かいましたが、ボクは、加藤Dが1年前に演出した「ヤンキー母校に帰る」第4話を思い出してしまいました。竹野内豊がイジメについて長々と説教するシーンで机を叩いていました。もちろん、机を叩く芝居というのは、「金八」ではよくある演出で加藤Dの専売特許ではないのですが、「ヤンキー」第4話では、この演出が効果的に決まっていました。まあ、「ヤンキー」自体が今回の「金八」より数倍面白かったりしますが…。

そういえば、今回のタイトルバックは加藤Dが演出しているそうです。生徒役がカメラを覗き込むようにして走っていくカットに、以前とは違う新鮮味を感じたのですが、この辺が加藤Dらしさなんでしょうか。

ちなみに、これまでの福澤演出で一番印象に残っているのは、北先生のクラスのタップダンスのシーン(第4話)です。福澤Dの録音に対する異常なこだわりに圧倒されました。録画ビデオが残っている方は、ぜひ見直して(聞き直して?)みてください。録音といえば、第5話のソーラン節のシーンにおける歓声の録音も手が込んでいて、観客のアップのところで録音の質感がガラリと変わっていました。このシーンは評判がよくないみたいですが、マンネリ化したソーラン節の演出で、あれ以上を望むのは酷というものです。むしろ、福澤Dの発想力をきちんと評価してあげるべきでしょう。たしかに、面白かったかと聞かれれば、微妙なところではあるんですが……。ちなみに、最終回のソーラン節は止めにして、前シリーズのハセケンと一緒に「ハセケン・サンバ」を踊る――なんていうのはどうでしょう?(^^;;

 5.中途半端に一話完結的な脚本

ところで、今回の「金八」は、第5・6シリーズと比較すると、一話完結的な要素が強くなっているようです。厳密にいうと、一話で中途半端に完結して、そのまま放ったらかしという状態なんですけど…。第3話のソンと弟のエピソードもその後のフォローは一切ないですし、同じく第3話の孝太郎と和晃のドラッグ事件、第6話の性教育人形の問題、第7〜8話の崇史の親父の会社&不登校問題、第9話の小学生の妊娠問題……などなど。ヤヨ(岩田さゆり)にしたって、もっとクラス内での軋轢が描かれるのかと思っていたら、そうでもないみたいなんで拍子抜けです。単に、2〜3話に1回くらいのペースでパニックを起こしているだけに見えちゃいます。

なお、小山内美江子さんは、以下のサイトの記事で癌であることを公表されていますが、こうしたことも、脚本の仕上がりに関係しているのかもしれません。新春SPの脚本は清水有生さんになるようですが、こうなってくると作品の良し悪しよりも、小山内さんの病状の方が心配になってしまいます。
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/archive/news/2004/11/26/20041126dde012070010000c.html

今回のシリーズの場合、脚本にしても演出にしても、明確なビジョンとかイメージを打ち出すことができなくて、過去のネタ(演出・エピソード・出演者)を断片的に流用してお茶を濁している――というのが実情なのかもしれません。城之内ミサさんの音楽にしたって、新味に欠けるモノが多くて、精彩が感じられません。城之内さんは以前「一番最初の視聴者としての感想を音楽で表現している」と発言されていたことがありますが、だとするなら、今回はプレビューを見ても気合いが入らなかった、ということなんでしょうか。


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