寅申相当年 四月山出祭 五月里曳祭・下社遷座祭 六月上社遷座祭
 諏訪大社の諸祭儀の中でも特筆すべき大祭で、社殿の建替とその四隅におんばしらと呼ぶ大木を曳建ることに大別されます。起源は遠く古代に遡りますが、平安朝時代初期桓武天皇の御代からは信濃国の総力をあげて奉仕され費用の調達の為に元服の式や婚礼、家屋の新築や増改築が禁じられたこともあります。唯今では造営も一部の建物に留まり、奉仕も諏訪地方一円二十万氏子へと縮少され、老若男女の区別なく御奉仕頂いております。
 おんばしらの用材は樅の木が使われ、三年前から木の選定等準備が始まり、上社関係は約二十五キロ隔たる八ケ岳の中腹から、下社関係は八島高原の近くから約十キロの里程を曳き出します。大きな柱は周囲三米、長さ十六米余、重さ十二、三トンにも及び、独特の木遣り歌と共に千人から二、三千人の人々に依って曳行されます。
 車もコロも使わず人の力だけで曳き摺る為に原始的ではありますが、急坂を曳き落したり、川を引き渡したりして怪我人が出ない方が不思議と言われる程に荒く勇壮な行事として知られ、奇祭の一つに挙げられています。
(上社例大祭)四月十五日
 本宮で例大祭の神事執行後神輿行列を仕立て前宮に赴き十間廊で古式に依る祭典が行なわれます。古くは三月酉の日に行なわれたため酉の祭りとも言われ、農作物の豊穣を祈って御祭神のお使いが信濃国中を巡回するに際して行なわれたお祭りで大御立座神事とも言います。特殊神饌として鹿の頭を始め鳥獣魚類等が供えられるため一部では狩猟に関係したお祭りの如く言われています。唯今は剥製の鹿頭をお供えしますが、昔は七十五頭献じられたこともあり、中に必ず耳の裂けた鹿があって高野の耳裂鹿と言い七不思議の一つに挙げられています。
(下社例大祭)八月一日
 二月一日に春宮にお遷しした御霊代(みたましろ)を神幸行列を以て再び秋宮へ御遷座する遷座祭に引続いて下社例大祭は秋宮で執行されます。この遷座の行列に次いで青柴で作った大きな舟に翁媼の人形を乗せた柴舟が当番地区(御頭郷)の氏子数百人に依って春宮から秋宮へ曳行されます。秋宮へ曳付けて神楽殿を三巡し、神事相撲三番が行われて式が終り、翁媼人形は焼却されます。明治初年迄は柴舟を裸の若者が舁いで練ったので裸祭りの名も伝わっております。尚遷座祭には当社独特の風習として楊柳(川柳)の幣が献じられます。
(上社)一月一日
 本宮前の御手洗川の氷を砕いて蛙を捕え、神前で小弓を以て射通し矢串のまゝお供えしますが、どんなに寒い年でも蛙が捕れ、七不思議の一つです。続いて宮司が神秘な占いを行ない、当年の諸祭儀に奉仕する地区、御頭郷を選定する御占神事が行われます。
(下社)一月十五目
 春宮で米と小豆と葦の筒を大釜に入れて一晩中粥を炊き、十五日未明に筒を割り中の粥の状態で豊凶を占います。現在は四十四本の筒で農作物四十三種と世の中全般を見ますが時代に依り本数は違います。占いの正確なこと神占正に誤りなしと七不思議の一つです。
(下社)六月三十日
 下社の末社御作田社の神前で雅楽を奏し、三坪程の神事田で田植をします。一ケ月後の八月一日には神前に供することが出来たと言われ、御作田の早稲と言い七不思議の一つになっています。室町時代の記録では上社の藤島社でも同日田植神事が行なわれていますが現在の上社のそれは一般の田植と同じ頃行なわれます。
(上社・下社)八月二十六・七・八日
 上社の御射山社は八ケ岳の山麓にあり、下社は江戸時代初期に八島高原から秋宮東北五キロ程の山中に移されました。青萱の穂で仮屋を葺き、神職その他が参籠の上祭典を行なうので穂屋祭りの名称があります。鎌倉幕府は全国の武将をこの神事に参列せしめ、八島高原や霧ケ峯一帯で武芸を競わせたりして祭事を賑わしめ、参加した武将は諏訪大神の御分霊を拝戴して任地に赴き御分社を奉齋しました。その為多くの御分社はその例祭日を秋の二十七日前後にしております。尚唯今では農作物の豊穣祈願と二才児の厄除健勝祈願が行なわれます。